2023年7月2日 5時00分

ああ、傘がない

 ああ、傘がない。しまった。忘れた。そんな思いをすることがずいぶんと増えた気がする。真夏のような強い日差しだったかと思うと、ゲリラ豪雨が突然に降り出す。急変する天気に傘のありがたさを痛感する日々である▼名曲『傘がない』を井上陽水さん(いのうえ ようすい) が歌ったのはもう半世紀も前のことだ。新聞は深刻な事件を報道している、テレビでは国家の大事を論じている。〈だけども問題は今日の雨 傘がない〉。陽水さんはそう歌った▼曲名の英訳は『ノー・アンブレラ』。「私は傘がない」と主語をつける訳に陽水さんは反対したそうだ。「傘は象徴なのです。『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです」(ロバート・キャンベル『井上陽水英訳詞集』)▼新聞やテレビが報じるのは、何やら実感がわかない、遠くの話ばかりではないか。もっと目の前の難題にあたふた(】in a hurry, hurriedly, hastily )振り回されているのが、私たち人間というものではないのか。作り手の問題意識が強く伝わってくる話である▼いまは亡き筑紫哲也((ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日))さんはこの歌を聞き、人々の関心から離れたニュース番組をつくってはなるまい、と思ったそうだ。大きな問題を伝えつつも、世人(せじん)を打つ〈つめたい雨〉を忘れない。そんな報道を目指そうと考えたらしい▼「傘は平和や優しさだったりする」。陽水さんは同詞集で、そうも語っている。なるほど、と気づく。だから、ひとはよく、傘を忘れるのか。忘れて、失って、それからいつも、しまったと悔やむのか。ああ、傘がない。