2023年9月7日 5時00分
棟方志功(むなかた しこう)生誕120年
鉢巻(はちまき)姿の分厚い丸眼鏡の男は、ベートーベンの第九を口遊み(くちずさみ)ながら、驚くべきスピードで板(いた)を彫りすすんだ(ほりすすんだ)。野外でのスケッチでは写真家の土門拳(どもん こぶし)をして、俺のシャッターよりもお前の絵のほうが早いよ、と言わしめた(言わせろの意味)▼版画家(はんがか)・棟方志功(むなかた しこう)である。おととい5日が生誕120年だった。青森の鍛冶屋(かじや)に生まれ、「わだばゴッホになる」と上京した話はあまりに有名だ。記念の展覧会が、いま郷土(きょうど)で開かれている。10月からの東京での開催を前に、ひと足早く訪れた▼仏や神話(しんわ)の人物の像は、原始的な力強さにあふれながら、どこか童心(どうしん)を宿して(やどして)いる。女性はあくまでふくよか(plump)である。〈志功描く女の顔はいとあやし遊女とも見ゆ菩薩(ぼさつ)とも見ゆ〉小林正一。街にわずかに漂うねぶた祭の余韻(よいん)には、棟方版画の色鮮やかさの源流を感じた▼本人は30代から「板画」とよんだ。板の声をひたすら聞く。年齢を重ねるにつれ、さらにその先を目指した。言葉を残している▼「自分を忘れ、板刀(いたかたな)も板木(いたき)も忘れ、想い(おもい)もこころも、忘れるというよりも無くして仕舞わなくてはならない」。もはや彼我(かれわれ)の区別もない。芸術の道に身を燃やし尽くした天才だけが間近(まぢか)にできる悟り(さとり)の境地(きょうち)である▼無心の姿を、親友の草野心平も見たのだろう。こんな詩をつづっている。「ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし/ゴッホにはならずに/世界の/Munakataになった(略)そして近視の眼鏡をぎらつかせ/彫る/棟方志功を彫りつける」