2023年8月19日 5時00分
まるごと短歌
酒を愛した歌人、若山牧水(わかやま ぼくすい)には、もう一つ愛するものがあった。川の流れをさかのぼり、峠(とうげ)を越える。水源から、また新しく小さな瀬(せ)が生まれている。そういう光景に出会うと「胸の苦しくなるような歓(よろこ)びを覚える」と、『みなかみ紀行』に書いている▼利根川(とねがわ)の最上流にあたる群馬県みなかみ町の名は、この題名からとられた。白い雲、緑の山々。夏の美しさが川面(かわめん)にまぶしい町である。ここで先月、「まるごと短歌」という試みがあり、訪れてみた▼地図を頼りに、あちこちに掲げられたQRコードを探す。読みとると、目の前を描き出した短歌が示される。歌人の大森静佳(おおもり しずか)さんが招かれて詠んだ16首だ。〈ああ、ここの風は甘いと言ったとき駒形山(こまがたやま)の馬が振り向く〉▼初めての風物(ふうぶつ)に目を奪われながら、のんびりと、でも汗だくになって一つひとつ集めた。宝探し(たからさがし)の楽しさだ。小さな神社(じんじゃ)には、こうあった。〈杉の影伸びたるここに踏み入れば遠き約束のようにすずしい〉▼地元では当たり前の光景も、光の当て方を変えれば、埋もれた(うもれた)魅力が浮かび上がる。主催した地元の篠原香代(しのはら かよ)さん(46)は「みなかみを短歌のまちにしたいんです」と夢を語った▼紀行の旅で、牧水は歌の同人をみなかみに訪ねた。家には机もない。どこで歌をつくるのかと尋ねると「何処(どこ)という事もありません、山ででも野良ででも作ります」。文化の土壌が積もり続けてきた地なのだろう。短歌をつうじた街おこしという、新しい小さな瀬が生まれている。