2023年6月15日 5時00分
自衛官候補生の凶行
作家浅田次郎さんの『歩兵の本領』に、入営前夜の自衛官を描いた短編がある。自分は通用するのか、いっそ逃げようか。不安は、新人教育担当の先輩の率直な物言いで薄らぐ。「おまえが通用するかどうかじゃなくって、俺たち助教がおまえら全員を通用させなけりゃならないんだ」▼教育期間は春から初夏の約3カ月。その間に一人前に仕上げる、という責任感と自負のことばに主人公は心をほぐす。浅田さんは19歳で陸上自衛隊に入った。体験を生かしているのだろう。新人は共同生活をしながら、シーツのたたみ方から銃の扱い方まで、先輩に基本をたたき込まれる▼いまごろは、教育期間の終了まであとわずかという時ではないか。いったい何があったのか。18歳の自衛官候補生の男が、岐阜市での射撃訓練中に、教育担当の先輩3人を撃って死傷させた。凶行に驚くほかない▼人材確保の悩みは自衛隊も例外でなく、過去10年以上、定数割れが続いている。その中で候補生への年間の応募は、直近のまとめで約2万8千人。男もこの春には、新しい世界への意気込みと緊張で身を硬くした一人であったろう▼所属する部隊の駐屯地では、4月に候補生の入隊式があった。代表者が読み上げたはずだ。「常に徳操を養い、人格を尊重し(略)必要な知識及び技能の修得に励むことを誓います」▼全員が署名しなければならない「服務の宣誓」である。それからわずか3カ月足らずだ。真摯(しんし)な思いは、どこに消えてしまったのか。