2023年6月8日 5時00分
ジュリアおたあの人生
ジュリアおたあは悲劇の女性だ。豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島から連れてこられ、キリシタン大名のもと洗礼(せんれい)を受けた。関ケ原の戦い後は徳川家康に厚遇(こうぐう)されたが、棄教(き‐きょう)を拒んで島流し(しまながし)にされたと伝えられる。いずれも宣教師らの文書に書かれているが、日本の資料はなかった▼そのおたあによる直筆(じきひつ)の書状が初めて見つかった。あて先は生き別れた(いきわかれた)弟の村田安政(むらだ やすまさ)で、1609年に書かれたようだ。当時は家康の側室に仕えており、弟に似た者がいると聞いて萩藩(はぎはん)に問い合わせる内容だ▼朝鮮王朝の貴族階級出身で、別れたころは13歳、弟は6歳ほどだったと記述。「手に青いあざ、足に柿色のあざがあったが、あなたにもありますか」などと尋ねている。その後に駿府城で再会し、小袖(こそで)が家康から安政へ贈られたと伝わる▼安政から数えて14代目の子孫が埼玉県にいると聞き、村田矩夫(むらだ のりお)さん(81)を訪ねた。「家康公から賜った(たまわった)家宝がある」と父親から聞いたのは、50年ほど前だった。多くを語らずに亡くなったが、「私も年を取って気になり、探し始めた」という▼革製(かわせい)のトランクなどが見つかったのは約5年前で、大阪の長兄宅(ちょうけいたく)の押し入れだった。出てきた小袖や文書を見て、村田さんは「後世に伝えなければ」と考えた。萩博物館へ寄贈し(きぞうし)、いま公開されている。「義務を果たせてほっとしている」と話す▼美しいかな文字に、どんな人だったのかと考える。小説などで描かれてきたおたあが確かにいた。残っていて良かった。
ジュリア おたあ(生没年不詳(せいぼつねんふしょう))は、安土桃山(あづち‐ももやま)時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して、現代に伝わる洗礼名「ジュリア」を得て、日本名「たあ」と合わせて「ジュリアおたあ」と呼ばれる。
彼女を猶子(ゆうし)とした小西行長(こにし‐ゆきなが)が関ヶ原の戦い(1600年)に敗れて刑死(けいし)した後、勝者である徳川家康の侍女(じじょ)となったが、禁教令が出てもキリシタンとしての信仰を捨てなかったため、伊豆諸島(いずしょとう)へ流刑となった。
徳川家康から旧長州藩士に贈られたとされる着物と、家康に仕えた(つかえた0リシタンの女性、「ジュリアおたあ」の直筆の書状が見つかり、2023−04−19日報道陣に公開されました。
公開された旧長州藩士の村田家に伝わる小袖と呼ばれる着物は、村田安政が徳川家康から贈られたとされるもので、徳川家の三葉葵紋(みつばあおいもん)が5か所に入っているほか、色鮮やかな亀の甲羅のような六角形の模様がデザインされています。
小袖の身丈は1メートル21センチで、家紋の特徴などから実際に家康が身につけていたものとみられるということです。
小袖が贈られた村田安政は朝鮮半島で生まれ、日本に連れて来られたと伝えられていて、その実の姉とされるのは、日本でキリスト教の洗礼を受けのちに家康に仕えた「ジュリアおたあ」です。
今回、小袖とともに村田家に伝わる「ジュリアおたあ」の直筆の書状が初めて見つかり、あわせて公開されました。
書状は1609年に書かれたもので、朝鮮半島から別々に日本に連れて来られた弟の存在を確かめるためにジュリアおたあが、安政に宛てて送ったものと見られます。
「てのこうにはあおきあざ」といった弟の特徴が記され、書状の最後には、安政の朝鮮での名前「うんなき」と「たあ」という文字も読み取ることができ、当時の歴史を知る上で貴重な資料だということです。
萩博物館の平岡崇学(ひらおか たかし)芸員は「長州藩と徳川家康の関係はこれまであまり知られていなかったので、こうした歴史があったことを知ってもらいたい。徳川家の家紋は、皆さんが知っているものとは少し違うものなので、家紋の変遷も感じとってほしい」と話していました。