2023年12月9日 5時00分

女将の思い

　群馬県にある伊香保温泉（いかほおんせん）での話である。１９９０年代のことだ。一軒の旅館で、大浴場（おおよくじょう）にいた宿泊客が怒声（どせい）をあげ、苦情を訴えていた。障害者の客が浴場を汚したからだった。すみません、すみません。女将（おかみ）だった松本和子（まつもと　ともこ）さん（８０）は何度も頭を下げ、謝った▼それでも客の怒りは収まらなかった。ついには障害者の宿泊が悪いかのようなことも口にした。女将はたまりかねて言った。(〜かねる、他の動詞の連用形に付いて、躊躇ちゅうちょ・不可能・困難などの意を表す。）「お客さんが別の旅館に行ってもらえませんか。この人たちは、うちにしか来られないんですよ」▼確かに当時、車イス用の設備を整え、障害者を積極的に受け入れている宿は少なかった。そばにいた娘の由起（ゆき）さん（５４）は思った。乱暴な（らんぼうな）言い方だけど、母親は間違ってない。「あっぱれ（みごとなさま、splendid)。うちはそういう旅館なんだ」▼それから２０年以上が過ぎ、旅館の女将はいま、由起さんが継いでいる。彼女が目指すのは、徹底して「旅行弱者（りょこうよわしゃ）」に寄り添う旅館だ。障害者や幼児を連れた家族客が、安心して過ごせる宿を理想とする。そのバリアフリーなどの試みが地元で注目されている▼先代女将の和子（ともこ）さんに尋ねてみた。なぜ、あのとき、あんなことを言ったのですか。和子さんは言い淀んで（いいよどんで）いたが、やがてポツリと言った。中学のとき、小児麻痺（しょうにまひ）の仲良しの友だちがいたこと。その子が悲しい思いをしていたこと▼「でもね、そういう世の中じゃいけないと思ったんですよ」。和子さんは穏やかに語った。窓の外では、上州（じょうしゅう）の連山（れんざん）が悠々たる姿を見せていた。

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