2023年10月15日 5時00分

尾身氏の1100日

 もしも、この人がいなかったら、どうなっていただろうか。巨大な不条理に誰もが翻弄(ほんろう)されたコロナ禍は、より悲惨なものになっていただろうか。あるいは逆だろうか。尾身茂氏の著書『1100日間の葛藤(かっとう)』を読み、どうしてもそんな想像をしてしまった▼8月に一線を退いた(しりぞいた)コロナ対策のキーパーソンが、危機の3年半を振り返った「自己検証」の本である。「ルビコン川を渡る」つもりで、政府が嫌う(きらう)提言もしたと記している。恐れたのは目の前の批判や軋轢(あつれき)ではなく、「歴史の審判」だったそうだ▼もちろん譲歩(じょうほ)もあった。例えば「呼気(こき)による感染の可能性」は、政府の要請で削除した。提言として公表すれば「一般市民に不要な恐怖感を与えかねない」というのが政府の考えだった▼削除は正しかったのか。専門家と政府の考えが異なる場合、国民にそのまま相違(そうい)を知らせるべきだ、と尾身氏は書く。都合の悪い話を公表しなければ、国民は政府を信用しなくなると。だが、実際には、妥協点の模索が繰り返された▼かつてアインシュタインは原爆の開発を進言した。ところが、原爆が広島、長崎に落とされた後は考えを改め、反核を訴えた。科学者は間違える。政府も間違える。あらゆる無謬(むびゅう、誤りのないこと)性の否定から、科学的な思考は始まるのだろう▼「今後さまざまな立場の人による多角的な検証を待ちたい」と同書は結ばれている。いつか、パンデミックはまた起きる。政治の側からも「歴史の審判(しんぱん)」に堪えうる(たえうる)証言を期待したい。