2023年10月8日 5時00分
消える時刻表
コスパだ〔コスト-パフォーマンスの略〕のタイパ(タイムパフォーマンス - 「時間対効果」)だのと効率を迫られる世の中だから、余計に思いが強まるのだろう。行き当たりばったりの旅にあこがれる。お手本(てほん)は内田百けん(うちだ ひゃっけん)の『特別阿房(あほう)列車』の心である。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」▼切符を事前に買うことは「旅行の趣旨に反する」と潔し(いさぎよし)としない。さすがである。懐の算段がつくと、出発までは夜な夜な(よなよな)時刻表を眺めている。にやけた様子が目に浮かぶ▼名文家(めいぶんか)が想像を広げた時刻表も、最近は冊子(さっし)の発行部数が激減していると聞いていた。しかし、ついに駅のホームからも掲示が消えつつあるとは。先日の記事に驚いた。ダイヤ改定のたびに差し替える(さしかえる)ので経費がかかる。その削減が目的だという▼たしかに都会では、時刻表に頼らずとも列車はすぐにやってくる。仕事で出張する際も、ネットで調べておくのが習慣になった。だからわがままだとは知りつつ、「行き当たりばったり派」としては、どこか寂しさが否めない(いなめない)▼取材で小さなホームに降り立つことがある。空白だらけの時刻表に思いは膨らむ。以前はもっとにぎわったのに違いない。乗ってくるはずの人に会えず、待ち続けた人もいただろう。〈停車する駅のホームの薔薇(ばら)の花ふと揺らぎたり人待つ如く〉吉川米子(よしがわ よなこ) ▼少々センチメンタルに過ぎたかもしれない。でも忘れ得ぬ思い出を、あの小さな数字の集まりに抱く人は少なくなかろう。寂しくなるのは、秋がもたらす感傷(かんしょう)のせいばかりではない。