2023年10月13日 5時00分

棋士も人間だった

 「極端(きょくたん)に言えば、将棋は『終盤で相手に一回間違えさせたら自分の勝ち』」。棋士の杉本昌隆(すぎもと まさたか)さんが、自著(じちょ)『悔しがる力』で将棋の面白さをそう書いている。一昨日の王座戦第4局は、まさにそんな激戦だった。藤井聡太(ふじい そうた)さんが永瀬拓矢(ながせ たくや)さんに勝ち、八冠(はちかん)を達成した▼最終盤では双方が、一手60秒未満で指す「1分将棋」に突入した。どちらが完璧に読み切れるか。どちらかが間違えるのか。息詰まる緊張のなか、123手目を指した永瀬さんが突然、頭を掻き毟った(かきむしった、scratch)。ため息をつき、天を仰いだ(てんをあおいだ)▼明らかにミスをしたとわかるしぐさに、驚いた。血の気(ちのき)が引いたか、悔しさが出たのだろうか。藤井さんは表情を変えず、盤上を見つめたままだ。直前まで優勢でも一手で変わる。将棋の怖さを見た思いがした▼無表情で隠し通す人もいる。谷川浩司(たにがわ こうじ)さんは40年前、初めて名人位(めいじんい)を得た対局で「おやつとして出ていたイチゴにフォークを刺した瞬間」にミスをしたことに気づいたという。「何食わぬ顔でイチゴを口に入れたが、まったく味はしなかった」(『藤井聡太論』)▼今回の対局にこれほど引きつけられたのは、棋士の魅力によるところが大きい。どんなにAI技術が進歩しても、全力で対峙(たいじ)する人間のようには、見る者の心は打てない▼トップ棋士たちも間違い、落ち込むのだ。5連覇を目前にした永瀬さんの重圧はいかほどだったか。そして、あの指し手の応酬(おうしゅう)を乗り切った挑戦者の心技体(しんぎたい、spirit)の充実ぶり。恐るべき21歳である。