2024年1月10日 5時00分
旧田中角栄邸が全焼
田中角栄(たなかかくえい)氏が住んだ「目白御殿(めじろごでん)」の年始は、かつての東京でちょっとした名物だった。政財界や官僚など、総勢千人近くがあいさつに来る。木遣り(きやり)歌が披露され、料理がふるまわれる。新潟の貧しい生まれから首相に上り詰めた「今太閤(いまたいこう)」の栄華(えいが)を象徴する光景だった▼建物は、進駐軍の将校が使っていた洋館で、手吹き(てふき)ガラスの照明などで飾られていたそうだ。角栄氏が住み始めたのは50年代半ば。後には、故郷のニシキゴイを庭の池に泳がせるようになった▼角栄氏が朝6時に起き、背広に着替えて別館(べっかん)へ行くと、数十組(すうじゅうくみ)の陳情団(ちんじょうだん)が待ちかまえている。それが日常だった。各組5分程度で話を聞くと「ああ、わかった」。目の前で省庁幹部に電話する。何事も即決(そっけつ)だった▼盟友だった大平正芳(おおひら まさよし)氏は、番記者たちに見つからぬように塀を乗り越えて邸内に侵入したことがある。持参した菓子箱(かしばこ)の中には500万円の札束(さつたば)。角栄氏から閣僚人事の了解をとりつけるためだった▼権力と人脈と金が集中する。政治裏面史(うらめんし)の証人(しょうにん)だった目白邸が、全焼してしまった。娘の真紀子氏が「仏壇の線香を消し忘れた」と語っている。悔やんでも悔やみきれぬ思いだろう▼田中政治とは、未来を信じられた高度成長期の産物(さんぶつ)と言える。昭和の政治と言ってもいい。鉄道や道路を張りめぐらせた「光」と、政治をカネまみれにした「影」。その象徴だった目白邸の焼失に、改めて時代の変遷を思う。残照はいよいよわずかとなり、影ばかりが長く伸びる。
中 角栄(たなか かくえい、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。
衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。
自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていたころは、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた[2][3]。大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国の航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。
- 目白御殿全焼
着衣着火(ちゃくいちゃっか)は、(人間の)衣服に引火する災害事故のこと。
きやり 0【木遣り】 ① 大木などを,多人数で音頭(おんど)をとりながら運ぶこと。 ② 「木遣り唄(うた)」の略。
8日午後3時過ぎ、東京・文京区目白台にある、田中角栄元首相のかつての自宅で火事があり、800平方メートルが全焼した。現在は田中真紀子元外相が居住しており、当時4人が現場にいたが、避難し、ケガはなかった。
警視庁幹部によると、真紀子氏は8日昼頃、仏壇のろうそくにマッチで火をつけ、線香2本を上げた後、ろうそくの火は消したと説明。「窓ガラスが割れるような音がしたので外を見たら、煙が上がっていた」と話しているという。
火災は8日午後3時15分頃に発生。木造2階建て住宅約800平方メートルが全焼し、敷地内の平屋住宅の一部も焼けた。真紀子氏夫婦は当時、普段生活する平屋住宅におり、けがはなかった。