2024年5月4日 5時00分
フジコ・ヘミングさん逝く
間違ってもいいじゃない。機械じゃないんだから――。颯爽(さっそう)として言い放つ姿が、何とも素敵な人だった。「人間だということは、どこか弱いことでしょう。完璧な人なんかいない」。幾多の至言を残し、ピアニストのフジコ・ヘミングさんが亡くなった▼思い出すのは昨年、横浜での演奏会を聴いたときのことだ。舞台で彼女は言った。予定にあるリストの「愛の夢」は「練習が出来ていないので、きょうは弾きません」。まるで親戚のピアノ発表会にいるような温かい気持ちになった▼サッカーのトップ選手が見せるバナナシュートの如(ごと)く、鋭い切れ味があるわけではない。天才棋士の「神の一手」とも違う。でも、超絶な技巧などとは離れ、彼女の奏でる音色には間違いなく、聴く者の心を震わせる何かがあった▼不運に悲嘆を重ねた半生だった。本格デビュー前に病になり、一時は聴力を失う。人の冷たさを知り、貧乏に苦しんだ。「もう、私の出番は天国にしかないだろう」とずっと思っていたそうだ▼乗り越えられたのは「猫と音楽があったから」。67歳のとき、テレビ番組に紹介され、一躍スターとなった。批判もされたが、「なにが一流かなんて、誰も言えないし、わからないじゃない」▼きょうも世界のどこかに、失意に沈む若き才能がいることを思う。それでも必死に、あすの自分を信じる人がいることを思う。フジコさんの音楽は、そんな人を励まし続けるに違いない。遠く天国から、その愛する猫たちとともに。