2024年5月19日 5時00分
短編小説の巨匠逝く
平凡にみえた女性たちの日常が、ちょっとした偶然から変わり始める。物語は想像を超えて展開し、その結末は深い余韻(よいん)を残す。カナダ人作家のアリス・マンローさんは間違いなく、短編小説(たんぺんしょうせつ)の巨匠(きょしょう)だった。何十年もの時間軸を行き来しても数十ページで見事に完結させてしまう▼「チェーホフの後継者」とも呼ばれたマンローさんが、92歳で亡くなった。カナダの小さな町で生まれ、大学に進学したが、奨学金が切れて2年で中退。4人の娘を産み、1人を亡くし、離婚と再婚を経験しながら書き続けた▼作品の魅力は隙のない筋立て(すじだて)と、簡潔な文章にある。どうすればこんな風に書けるのかと、インタビューを片端から読んだことがあった。毎日朝から必死に書き、書くと削りに削るという。脱稿後(だっこうご)も修正し続けた▼ノーベル文学賞を受賞したのは82歳の時で、すでに引退を発表していた。体調が悪く授賞式には出席できず、代わりに録画映像が流された。執筆で最もつらいことを問われ、「読み返して、いかにひどいかを思い知るとき」と答えた▼「ジャック・ランダ・ホテル」は、村上春樹さんが編訳した短編集に収録されている。主人公は、若い女性に走った恋人を追って豪州まで来たが、意外な結末を迎える。村上さんも解説で、「こういうのってやはり芸だよなあと感心してしまう」と書いた▼あのマンローさんでも苦悶(くもん)して書き続け、比類なき「芸」の域まで達した。ああ書けないとすぐに音を上げる自分が、ただ情けない(I just feel ashamed of myself for being so quick to sound off when I can't write.)。