2024年8月11日 5時00分

審判という仕事

 いまのボールはインかアウトか。接触プレーでファウルはあったか。格技(かくぎ)なら相手に投げられたのか、技を返したのか。スポーツで判定を下す審判は、絶大な権限と責任を持つ。すべてをかけて挑む(いどむ)選手を相手にミスは許されない。うまくいって当たり前の、大変な仕事である▼どんな思いで務めているのだろう。それが知りたくて、現役や経験者の回顧録やインタビューを片端から読んでみた。共通するのは「審判が存在するのは、判断が難しい場合に決着をつけるため」との認識だ。容易に判断できれば、審判は必要ないと▼サッカー審判の西村雄一さんは、イングランドで1863年に初めて制定されたルールについて語っている(鵜飼克郎(うかい かつろう)著『審判はつらいよ』)。当時は審判が存在せず、選手だけでフェアプレーができると考えたという。ルール上、主審が現れたのは28年後だった▼審判が不在の時代から130年余り。いまや選手の最も近くにいる審判を、ピッチ外にいる審判が映像チェックで支えている。サッカーに限らず、ビデオ判定はあらゆるスポーツに導入されつつある▼それでも、大詰め(おおつめ)を迎えたパリ五輪では審判もSNSで「誤審」の誹謗(ひぼう)中傷にさらされている。世界中の視聴者が鮮明なプレー映像を示しながら「間違いだ。許せない」と感情をぶつけるのは異様だ▼五輪には予測ができないスリルがある。それを詳細に伝える映像を見るときには寛容さも求めたい。スポーツの風景には審判がいてほしいから。