2024年11月17日 5時00分
死刑制度を考える
中国で、公開死刑を見たことがある。1993年の初夏のころだ。留学生として、チベット自治区を旅していて、ラサの町で偶然、目にした。いまでも思い出すと、胸のおくで何かがうずく。忘れられない記憶である▼高山病で頭が重く、ホテルで昼間から横になっていた。やけに人声が騒がしい。気になって外に出ると、道沿いに賑(にぎ)やかな人だかりができている。思わず、お祭りですか、と尋ねた。真っ黒に日焼けしたチベット族の男性が、少し戸惑った表情を見せてから言った。「処刑だよ」▼白バイに先導され、1台のトラックがゆっくりと現れた。荷台に数人の男が立っているのが見える。体を縛られ、うなだれていた。「強盗犯だ」。人々は興奮し、石を投げる若者もいた▼町の外れの河原で、処刑は行われた。パン、パンと乾いた銃声がした。そのときの憎悪に満ちた群衆の目、歓喜に沸く笑顔を、私は覚えている。あの粗暴な見せしめの光景にこそ、死刑という刑罰の本質があるのではないか。そんな問いが浮かび、いまも消えない▼「日本の死刑制度について考える懇話会」が、死刑は冤罪(えんざい)などの「根源的な問題を孕(はら)んでいる」とする提言をまとめた。日本弁護士連合会が呼びかけたものだが、検事総長や警察庁長官の経験者も名を連ねる。時代の変化を感じさせる動きである▼人間が殺されるということ。その重みを考え、考え抜いたとき、いまの制度を続けるべきなのか。正面からの議論の必要を、感じてやまない。