§2023-04-08
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地(えぞち)の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式(りょう‐ほうしき、星形要塞(ほしがたようさい))の城郭である。
予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。
かつて戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争で、榎本武揚(えのもと たけあき)、土方歳三(ひじかた としぞう)らが率いる旧幕府軍にとって最後の砦となった五稜郭。国の特別史跡に指定され、一般的には五稜郭公園の名で親しまれています。2010年には、郭内にあった江戸幕府の役所である箱館奉行所(はこだてぶぎょうしょ)が復元されました。多くの木々と堀に囲まれた星型の城郭は、夏は緑、秋は赤や黄色、冬は白、そして5月の大型連休ごろには桜色へと彩りを変えます。
公園として一般開放された1914(大正3)年に、当時の函館毎日新聞社が発刊1万号を記念し、10年かけて約1万本のサクラの木を寄贈(きぞう)・植樹(うえき)。2010(平成22)年に復元公開された箱館奉行所の横に建立されている碑で、その功績を確かめることができます。
現在では約1530本が花を咲かせています。公園の管理者によると、正面から入園して一の橋を渡り切った右手の土手にあるサクラが、周囲に日を遮るものがないためか、特に見栄えがするとか。また、散り際には堀の水面が花びらで覆い尽くされる「花筏(はないかだ)」も見られ、開花時とはひと味違った趣を楽しめます。大型連休前後には花見に集う市民であふれ、賑やかです。なお、函館のサクラの開花状況は、裏門の橋付近の標本木(ソメイヨシノ)で観測されます。
サクラ以外にも、フジ、ツツジ、スイレンなどの花も見事。堀の外周は一周1800メートルほどの遊歩道になっていて、ジョギングやウォーキングを楽しむ市民の姿も多く見られます。冬は、凍った堀に雪が積もって幽玄(ゆうげん)の世界に。四季折々に美しい景色が眺められる五稜郭公園。函館にお越しの際はぜひ、ゆっくり散策してみてください。
市民や観光で訪れる人の憩いの場である五稜郭公園のほぼ中央に、解体から約140年を経て部分復元された箱館奉行所。マツの木に囲まれながらたたずむ姿は、幕末の時代にタイムスリップしたような威厳をたたえています。
箱館奉行の最初の設置は1802(享和2)年。奉行所の建物は、その翌年、当初は函館山の山麓(現在の元町公園付近)に建てられました。その後、江戸時代末期のペリー来航に伴って同じ場所に再設置されましたが、1864(元治元)年、防衛上等の理由で、ヨーロッパの城塞都市を手本に蘭学者・武田斐三郎が設計した、星形の五稜郭へ新築移転します。江戸幕府の崩壊とともに明治新政府へ引き継がれますが、蝦夷地開拓をめざして上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠。激戦の末に箱館を制圧した新政府軍からの艦砲射撃で被弾し、1871(明治4)年には開拓使の札幌移転にともない解体されます。その後、昭和後期になると、復元の待望論が持ち上がり、綿密な発掘調査、文献研究が進められた結果、 2010(平成22)年7月、見事によみがえりました。
玄関前のコケラ葺き屋根のスギ、玄関のケヤキ、柱の青森ヒバ、天井板や板戸の秋田スギ、屋根裏の梁には東北地方のマツ、さらには大広間の備後表の本畳など、できるだけ江戸時代と同一の産地・材料にこだわった復元を実施。屋根瓦は建設当時のまだらな色相を再現するために、越前産の赤系4色が用いられています。
最も高く突き出ているのが5階部分の太鼓櫓(たいこやぐら)。約 16.5メートルの高さで、時を告げたり、港を監視するための役割がありました。四間からなる72畳の大広間は、年中行事等が行われる箱館奉行所で最も重要な空間、さらに奥にある表座敷は奉行と外国領事等の重要人物との会談が行われた場所で、ともに格式の高さを感じさせます。中庭を横目に、次なる「歴史発見ゾーン」へ進むと、奉行所や五稜郭、箱館戦争の歴史をパネルで紹介。見上げると天井の一部が開放されていて、頑丈な梁を確認できます。さらに映像シアターでは、復元に関わった職人が、資料に忠実にその工法等を再現していく様子が放映されています。復元されたのは庁舎全体の3分の1に過ぎないとはいえ、隅々まで見ていると時間を忘れてしまうほどです。建物周囲には、未復元の遺構が表示されています。
なお、2023年1月2日~3日のお正月期間中は、午前9時~午後3時までの特別開館となります。