第169回「芥川賞・直木賞」発表 芥川賞は市川沙央さん、直木賞は垣根涼介さんと永井紗耶子さんが受賞(2023年7月19日)


「ハンチバックの怪物」の密かな夢-市川沙央さん

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市川 沙央(いちかわ さおう、1979年 - )は、日本の小説家。神奈川県在住。

2023年(令和5年)、早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。卒業論文「障害者表象と現実社会の相互影響について」で小野梓記念学術賞(おのあずさきねんしょうは、早稲田大学が設けている学生褒賞)を受賞。

同年、『ハンチバック』で第128回文學界新人賞を受賞。同作で第169回芥川龍之介賞。

筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側弯症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。

「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。」

 市川沙央さんのデビュー作『ハンチバック』(文藝春秋)は、いま話題の1冊。本作は第128回文學界新人賞受賞作で、今月19日(2023-07-19)に発表される第169回芥川賞の候補作でもある。

 市川さんは筋疾患先天性ミオパチーという難病による症候性側弯症(しょうこうせいそくわんしょう)で、人工呼吸器・電動車椅子使用の当事者だ。中学2年生のころから、横になるときは人工呼吸器をつけている。20歳を過ぎて小説を書きはじめて20年以上、毎年公募に挑戦してきたという。

 本作では、自身と同じ難病を抱える主人公の心の内を、率直に切れ味(きれあじ)鋭く、ときにユーモラスに描いている。テーマも文章表現も新鮮で、ひと言でいうと強烈な作品だった。

怪物のねじくれた呟き

 井沢釈華(いさわ しゃか)は、先天性の遺伝性筋疾患のため、右肺(みぎはい)を押し潰すかたちで背骨(せぼね)がS字に湾曲している。人工呼吸器と電動車椅子を使い、裕福な両親が遺したグループホームの10畳の自室で生活している。

 某有名私大の通信課程に在籍しながら、コタツ記事(取材をせず、ネット情報などで構成する記事)のライターのバイトで稼いだお金を全額寄付している。ほかにもR18小説を書いたり、Twitterの裏アカ(裏アカウント)で「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」......などとつぶやいたりしている。

 釈華には、社会的なつながりがほとんどない。「心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない」のだ。眉をひそめられそうなツイートは、自身の「清い人生を自虐する代わりに吐いた思いつきの夢」だったが、釈華は気に入っていた。

憎んだり嘘を吐いたり

 釈華はiPad miniを両手に挟んで読んだり書いたりしている。紙の本を読むことは、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかけるのだという。

 目が見える、本が持てる、ページがめくれる、読書姿勢が保てる、書店へ自由に買いに行ける。この「5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモ」を、「その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さ」を、釈華は憎んでいた

 歩く、声を出す、本を読む。こうした1つ1つが、釈華にとっては当たり前にできることではなかった。入浴もそうだ。週2日、シャワー浴と洗髪がある。

通常は同性のヘルパーが担当に入るが、女性ヘルパーがコロナに感染したことで、田中という30代の男性ヘルパーが釈華の担当に入った。釈華はそれを許可した。

互いに興味などなく、淡々と洗われて終わった。しかし、その日から田中の態度が馴れ馴れしくなった。そして誰も読んでいないと思っていた釈華のツイートを、田中が読んでいたことが発覚する。

 釈華は動揺した。

「実生活ではうら若く真面目で寡黙な障害女性井沢釈華さん」を通していたからだ。そこで釈華は一計を案じ、田中にある取引を持ちかける――。

「人間」になりたい

 医療用語や学術用語が出てきたかと思えば、見たことのない若者言葉も出てくる。言葉選びのセンスが、なんとも個性的。評者はインタビュー記事を読んで市川さんのことを知り、今回初めて作品を読んだ。そして最初の1行から目が点になった。

 障害というセンシティブなテーマを、重度障害当時者が描いた作品。ということで、硬めの文章で書かれた教科書的な作品を無意識のうちに想像していたようだ。

しかし、その真逆だった。

 本作には、健常者と障害者、強者と弱者、男性と女性、清らかな自分と清らかでない自分......などの2つを対比する描写が出てくる。自分のいる側だけで世界が完結した気になっていないか、と鋭く突っ込まれている気がした。

 自分のことを「怪物」と思いながら、「人間」になることを夢見る釈華。田中に持ちかけた取引に、え......と一瞬固まったが、そこまでするほど切実だったのだろう。「人間」なのに「人間」になりたいと願う彼女の心の内を、覗いてみてほしい。