佐藤 誠 2023/10/23

木原事件(3)ジョーカー|ホンボシ 木原事件「伝説の取調官」捜査秘録 第3回

 俺が「木原事件」の捜査に加わったのは、2018年6月頃のことだった。

 当時、俺は都内で起きた評論家の西部邁(にしべ すすむ)さんの自殺幇助(じさつほうじょ)事件を担当していて、その捜査が一段落ついたところだった。

 この事件では自殺を手助け(てだすけ)したテレビ局の局員と秘書が逮捕され、俺が取調官(とりしらべかん)として取り調べを行った。本来、捜査一課殺人犯係(捜査いっかさつじんはんがかり)は自殺幇助の捜査には手を出さないが、この事件では社会的影響力の大きさから俺たちが投入されたという経緯があった。

 その後、俺は特命捜査第一係(トクイチ)に行ってくれと言われ、しばらく行方不明事件の捜査に当たることになった。当時の小林敦捜査一課長が当時、殺人の一係、二係、四係からエース級の捜査員を引っ張ったからだ。

 俺はこの人事を受けたとき、「あ、助かったな」と思った。

 殺人事件での突然の呼び出しはないから、少しほっとしたのだ。しばらくはストレスの少ない職場で気持ちを休めることができる、という気持ちだったんだ。

 捜査一課殺人犯捜査第一係のK係長から連絡を受けたのは、そんなほっとした気持ちでいたときのことだった。

 K係長は俺がサツイチにいたとき、警部補として昇任してきた人だ。もともとは調べ官をやりたかったと聞いているが、サツイチでは俺がずっと調べ官だったので彼はデスクをやっていた。もう十数年の付き合いになる彼は係長になってからも、俺をずっと取調官として使ってくれていた。長年にわたって様々な事件をともに担当してきた信頼関係がある人だ。

 そのK係長が言ったんだ。

「誠さん。申し訳ないんだけれど、例の件の取り調べをやってくれないかな。誠さんしかいないんだよ。合流してくれないか」

 K係長の言うこの「例の件」というのが、後に「木原事件」と呼ばれるものだったわけだ。

 俺はこの時点で木原氏のことは知らなかったが、最初はあまり乗り気ではなかった。後輩に経験を積ませるのがいいんじゃないか、とK係長にも言ったんだ。

「いやあ、でも、やっぱりこれは勝負かけなきゃいけない事件だよ」

 そう言われ、俺は2006年の種雄さんの変死(へんし)事件の資料を読み込むことになった。そして、読み終えた際の感想は「これはかなり厄介な(やっかい)事件だな」というものだった。

 というのも、資料を読む限りでは決定的なジョーカー=証拠がなかったからだ。

 例えば、DNAが残っているとか、犯行に使われたナイフに指紋がしっかり残っているとか……。

 あるいは、誰かが目撃されているという証言でもあれば――。

 しかし、それらが資料には何も残されていない。明らかな証拠がなければ、俺たちはジョーカーを切れない。

「Kさん、これ資料を読むと大変ですよ」

「分かっているけど、もう捜査がここまで来ちゃっているんだよ」

 そうしてK係長は捜査班に合流してほしいと言い、後に俺は参考人である木原氏の妻・X子の取調官を担当することになった。

 このときX子が重要な参考人だったのは、種雄さんの死亡時刻に現場にいたYという男の証言があったからだ。

 雑誌でモデルをしていた種雄さんが2歳年下のX子と結婚したのは、2人の間に長男が生まれた2002年のことだ。2年後には長女も生まれ、彼らはX子の父親の持っている家に4人で暮らしていた。

 そんななか、現れたのが2人が趣味にしていたフリーマーケットを通じて知り合ったYだった。種雄さんとX子の夫婦仲はその頃には壊れ始めていたのか、X子はYのもとに子供を連れて行くようになった。X子は1カ月以上、子供とともに姿を消すこともあり、種雄さんは「離婚しても子供だけは引き取りたい」と言っていたという。

 そして、2006年4月7日に事件が起こる。

「X子が(東京近郊に住む)Yの家に荷物を置いている。明日、取り戻しに行くんだ」

 種雄さんは後に彼の遺体を発見して警察に通報する父にそう言い、実家のハイエースを借りていった。

 翌日、種雄さんはYと一緒にいたX子と子供たちに会い、言い争いの後に妻子を自宅に連れ帰っている。種雄さんが不審死を遂げたのはそのすぐ後のことだった。

 ――事件の資料を読みながら、俺は「これはX子を喋らせるしか方法がない」と思った。

 K係長も同意見だったが、ここで大きな問題となったのがX子の現在の夫が木原氏であったことだった。

 X子は種雄さんを亡くした8年後、木原氏と出会って再婚していた。警視庁が事件の再捜査を検討し始めたとき、木原氏は自民党政務調査会副会長兼事務局長という肩書で、要するに与党の政策立案を担うポストに就いている大物(おおもの)だった。

 そこで特命捜査第一係の係長と特命捜査対策室長は小林一課長に対して、政治絡みの案件になるのでサツイチを入れて欲しい旨を上申したという。そうして俺はK係長から捜査本部への合流を頼まれたというわけだ。

「うーん。これ、X子は何も言わないんじゃないの? いまは政治家の妻だろう? これはかなり厳しいんじゃないですか?」

 俺がそう言うと、K係長は、

「いや……。わかっているんだけど、喋らせるしかないよ」

「わかりました」

 そうして都内某所の庁舎にあった捜査本部に行った時は驚いたよ。

 何しろトクイチ、サツイチ、大塚署を含めて3、40人の捜査員が本部に詰めていたのだから。

 これは特別捜査並みの人数で、俺の捜査一課での18年間の経験でも類を見ない規模だった。もちろん、これだけの規模でサツイチまで入った案件が、「事件性がない」なんて話は聞いたこともない。