ツチヤの口車 第1299回 2023/07/08

見て見ぬ技術

 物を見るということは複雑である。

 眼球(がんきゅう)が1個テーブルの上にころがっていても、眼球が見ているとは考えにくい。テーブルの上で眼球に視神経と脳を接続(せつぞく)すれば「見ている」と言えるかもしれないが、凝視(ぎょうし)しているのか一瞥(いちべつ)、知りようがない。「見る」は物理学や生理学で説明がつくような簡単なものではない。最近、その複雑さを実感している。

 まず、わたしは自分の顔を長年直視していない。鏡には自分が映っており、十分な照明もあり、はっきり目を開いて鏡を見ている。それなのに、顔を見ないでいることが、いまでは簡単にできる。自分の顔が正視に耐えず、直視できないため、頭の中にある自分の顔のイメージ(約20年前の顔)に置き換えている。どうやってこの「見て見ぬ」技術を身につけたのか不明だが、必要は発明の母、必要に強く迫られたのだろう。

 写真も同じだ。自分が写っていると認識した瞬間に、その写真を見ながら、写真に写っているわたしの顔を脳に至るどこかで遮断するのだ。

 歳を取るにつれて正視できないものが増えた。子どもが虐待されるニュースはまともに見ていられない。妻の顔は、正視できなくなって久しい(妻に詰問されると視線も向けられないため、妻の顔と反比例して、床の状態がはっきり見えるようになる)。

 クレジットカードの支払い明細書もそうだ。支出額が許容範囲をはるかに超えていることが多いため、それが分かったとたんに数字を直視できなくなる。支出額が眼球と視神経を通して脳に届いたときには、数字が1桁ズレている。納税や保険料などの請求書を見ても同じことが自動的に起きるようになっている。

 若いころは少しでも視力が悪くなると動転するほど、物をはっきり見たいと思っていた。だが、歳を取るとはっきり見たくないものが増え、それとともに目もかすんでくる。目も状況に適応しているのだろう。ただ適応には弊害もある。新聞の株式欄は見なくなって久しいが、先日、自分のもっている株がどうなっているかを見ようとして目をこらしたが、活字が小さすぎてどうやっても読めなかった。薬の説明書や電気製品の説明書も読めるものは少ない。どの電気製品も意味不明のボタンが必ずある。最近体調が悪いところを見ると、薬の用量を間違えているかもしれない。

 こういう「見て見ぬ」やり方は真実から目をそらしていると言われるだろうが、わたしがやっているのは、鏡像(きょうぞう)や写真の像(ぞう)をなかったことにしているだけだ。写真を加工(かこう)するのと同じだ。

 現実と願望が食い違う場合、現実を変えるには整形するしかない。たいていは写真を加工する、鏡の代わりに自分の好きな俳優の写真を貼る、さらにフロイトによれば、夢を見たり、空想・妄想したり、絵画や文学による芸術作品を作ったり、といった現実と願望のギャップを埋める手段を使う。わたしのように現実(の像)をないものとして扱って何が悪い。

「見る」でさえこうだから、考えから閉め出していることはどれだけあるか、考えたくもない。自分の書いた原稿や自分の演奏の録音は、自分が生み出したものだと考えたくもない。さらに、過去のこと(愚行(ぐこう)ばかりだ)、現在のこと(いまの健康状態、外見、財産など)、未来のこと(延命治療やどういう死に方をするのかなど)、ほぼすべてを考えから閉め出している。やがてこれに適応して考える力を失うだろう。

 このようにわたしは、この世で一番重要な部分に目をふさいで生きている。