ツチヤの口車 第1321回 土屋 賢二 2023/12/16

ゴキブリに敬意を

 多様性(たようせい)の時代と言われるが、人間には多様なものを平等(びょうどう)に受け入れる度量(どりょう)がないと思う。

 だれにも食べ物の好き嫌い(すきぎらい)はあるし(「好き嫌いがない」と豪語(ごうご)する人はわたしの妻の料理を食べてみるがよい)、異性の好き嫌いもある。たぶんこれは本能的なもので、動物にも食べ物や異性に対してはっきりした好き嫌いがある。

 好き嫌いは歳とともに強くなり、受け入れられないものが増える。気に入らないテレビの番組(ばんぐみ)が増え、気に入った番組も、一人でも嫌いな人が出演すると見ていられない。顔、態度、主張内容、声の出し方だけで嫌いになるのだ。こんなに狭量(きょうりょう)なことではやがて風景の映像ぐらいしか見る番組がなくなってしまう。

 好き嫌いがあれば、依怙贔屓(えこ‐ひいき)が生じ、差別につながる恐れがある。たとえば「大谷翔平選手は朝ごはんを食べてから二度寝する」と聞けば、なぜかホッとしてそれまで自分に禁じていた二度寝をするようになる。隣のおっさん(中年の男性を呼ぶ語。元来は親しんでいう語)が「二度寝をやめたら体調がよくなった」と言うのを聞いても鼻で笑うだけだ。これは差別ではないのだろうか。無視やイジメにつながる態度ではないのだろうか。

 極端(きょくたん)な場合、話題にすることさえ避ける場合がある。たとえばトラや犬などは、ことわざ、成句(せいく)、教訓、比喩(ひゆ)などに登場するが、回虫(かいちゅう)やゴキブリやダニが登場することはほとんどない。

 日常見られない動物だからという理由で言及されないことはある。チーター、ヌー、水牛(すいぎゅう)、カバ、マントヒヒなどがそうだ。しかしハゲタカ(禿鷹)、ハイエナ((鬣犬、英: hyena))などは、日常的に接することがないにもかかわらず、日常会話に登場するし、想像の中にしか存在しない龍、カッパ、天狗(てんぐ)などもことわざの中に登場する。逆に日常的に接しているのにことわざや成句に登場しない動物もいる。アナゴ(穴子、海鰻、海鰻鱺)、毛虫(けむし)、ゴキブリなどがそうだ。

 人体(じんたい)の部位についてもそうだ。「大阪の胃袋」とは言うが、「福岡の食道」とは言わない。「日本の大動脈」とは言うが、「京都の毛細血管(もうさいけっかん)」とは言わない。「東京の水瓶(みずがめ)」とは言うが、「東京の膀胱(ぼうこう)」とは言わない。「日本の頭脳」とは言うが、「日本の股関節(こかんせつ)」とは言わない。「爪痕を残す」とは言っても「抜け毛(ぬけげ)を残す」とは言わない。

 ことばだけではない。扱いが違う。たとえばゴキブリは、ゴキブリに生まれたというだけで、いじめられ、嫌われ、殺され、殺虫剤(さっちゅうざい)が何種類も発売される境遇(きょうぐう)にある。これがイジメでなくて何だろうか。

 にもかかわらず、多数のゴキブリが、自分を殺そうと待ち構えている人間の家で命がけの毎日を送り、しかも人間よりはるか前から地上(ちじょう)に出現し、何億年も生き延びている。尊敬すべきではないか。繁栄(はんえい)の秘訣(ひけつ)を学ぶべきだ。

 繁栄の一因は、コソコソ目立たないように生きていることにある。人間は目立ち(めだち)たがるが、ゴキブリに言わせれば目立ってどうする。スターになる夢が破れた若者が引きこもりになってもそれは結果にすぎない。

 ゴキブリを見よ。一歩間違えるとカブトムシのように人気者になるところを踏みとどまり、嫌われ者に甘んじて(あまんじて)、コソコソ隠れる道を選んで生き延びてきた。もっと敬意を払おうではないか。今後わたしは敬意をこめて「お疲れ様です。心ならずもお命をいただきますが、妻の命令です。妻をお恨みください」と言って殺そうと思う。

 いま日本のどこかのマンションの上階で子どもが走り回り、バイソンの大群(おおむれ)が大移動するような音を立てているはずだ。そんなとき、こう怒ろうではないか。

「ゴキブリのように静かに走れないか?」

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