ツチヤの口車 第1289回 2023/04/22
一心不乱になるとき
大谷翔平(おおたに しょうへい)選手の活躍が世界を驚かせているが、彼の生活ぶりも驚きだ。
野球で活躍するには何をしなくてはならないかを逆算し、それに外れた物は一切口にせず(血液検査をして自分に必要な食べ物を 摂取している)、 トンカツを出されても衣(ころも)をはがして中身だけ食べるらしい。
筋トレも睡眠も計算ずくだ。健康オタク(御宅)だからではない。野球をするために必要な身体を作るためだ。加えて、 結果が出ないとき、スキル不足のせいなのかコンディションが悪いせいなのかを判断するためにも、身体を万全の状態に保つことが必要だという。
野球という目的に外れるものは徹底的に排除しているのだ。凡人が目的を設定したとたんにそこから外れようとするのとは正反対だ。
だれしも大谷選手に憧れるが、その問題は代償だ。
まず重圧が大きい。結果を期待されるから、1試合に何回もの勝負に勝ち続けなくてはならない。好きな物も食べられず、怪しげ(アヤシげ)なところに も行けない。友だち付き合いもせず、夜更かし(【よふかし】 (n,vs,vi) staying up late; )もせず、ゴミを見つけたら拾わなくては ならない。わたしなら心身を病んで早死(はやじに)にするだろう(早死にしても後悔しないだろう)。
ほとんどの人は、そんなに苦しい思いをするぐらいなら時代の寵児(ちょうじ)にならなくてもいいと思い、大谷選手を尊敬するだけに 止める(とどめる)自分に満足するだろう。
これが典型的な反応だろう。だがここには誤解がある。「苦しい思いをするぐらいなら」の部分が間違いだ。おそらく本人は「苦しい」とも 「努力している」とも考えておらず、好きなことを追究しているだけだ。命を賭けて高山(こうざん)に挑む(いどむ)登山家や、死ぬ思いで 走るマラソン選手と同じく、好きだからやっているのだ。
意外かもしれないが、世間には大谷選手並みにストイックな人が相当いる。寝ても覚めても競馬やパチンコのことばかりという人は少なくない。 企業の経営者にもそういう人は多いだろう。一分一秒(いっぷんいちびょう)を惜しんで株や為替取引に全財産を投じる人もいる。学者はみんな 一心不乱に研究している。僭越(せんえつ)ながら、わたしも数十年間、寝ても覚めても頭の中から哲学の問題が離れたことはなかった。どこへ行く にも論文と辞書を手放さず、食事をしていても、パチンコをしていても、夢の中でも、問題を考え続けた。こういうときは努力しているとも苦しいとも 思わない。むしろそうしないでいるのが苦痛なのだ。
もちろんどんなに没頭(ぼっとう)しても成功するとはかぎらない。結果を出すには素質(そしつ)が必要だ。だが自分にどれだけ素質があるのかは 本人にも分からない。というより、素質があるかないかは多くの場合、本人の眼中(がんちゅう)にはない。わたしは初めて哲学書を開いたとき、 1行も理解できず、教えてくれる先生も参考書も存在しなかった。だが環境が整っていないとか素質がないと思ってあきらめる気になったことは一度もない。 本当にやりたければ環境や素質が脳裡をよぎることはないのだ。
何十年もの間、一心不乱に打ち込んでも、最後まで結果が出ないことも多い。理系の学者の多くがそうだろう。その場合でも後悔することはまずない。 わたしは人生を賭けて失敗してもかまわないと思っていたし、途中で一度、それまでの20年間の研究が完全な無駄だったと気づいたが、後悔の念は微塵もなかった。
それにしては日常、後悔の連続だ。今日もお礼のメールを出すタイミングを逃して後悔するあまり、不注意に牛乳を床にぶちまけ、それに動揺して、 妻への返事が聞きづらいほど小さい声になって注意を受けた。
なぜ毎日後悔続きなのか。一心不乱に日常生活を送っていないのだろうか。