夜ふけのなわとび 第1793回
わが母国
「母国(ぼこく)」という、やや古めかしい言葉がある。「スーダンから日本人脱出」のニュースを見て、久しぶりにこの言葉を思い出した。
強くお金がある母国があることの幸せ。(議論はあるとしても)立派な飛行機が降り立ち、全力をあげて自国民を助けてくれる。
フランスの救援機には、ペット用の大きなキャリーも積み込まれた。可愛がっているものならば、ワンコだって助けてくれるのだ。戦火の中を逃げまどう[1] スーダンの人たちを尻目に。国家の体をなさない、混乱の国に生まれた人たちは本当に気の毒だ。ニュースを見るたびに心が痛む。どうすることも出来ないこともつらい。ウクライナもそうだが、生まれてきた国によって、幸せは左右される。
そこへいくと日本はまだまだいい国だと思いませんか。ちゃんと働けば餓死(がし)することもないし、言論の自由だってある。このあいだ日本でSNSから発信していた若者が、中国に帰ったとたん逮捕されたそうだ。わが国ではそんなことはない。誰だって自由にものを言える。
この頃ものすごく腹が立つのが、犯罪をおかした者がすぐに、
「弁護士を呼んでくれ。弁護士でないと話さない」
ということ。アンタ、顧問弁護士でもいるくらいエラいのか、と聞きたくなってくる。
何年か前、幼女(ようじょ)にわいせつ行為を繰り返した若い男が逮捕寸前になり、マスコミがとり囲んだ。すると彼らを威嚇するように、
「僕の弁護士を呼びますよ、いいですね。弁護士ですよ」
とかわめいていた。弁護士、という語を出せばみんなひるむと思っているのだ。
またもの書きとして、あるいは大学の関係者として、いろいろなやっかいごとにぶちあたることがある。たいていのことにはきちんと対処しているが、これはどうみても、言いがかり[2] だろう、と思うこともある。そういうのに限って、
「マスコミに訴えることも考えています」
などと言う。そういう時、
「これにつき合うほど、マスコミもヒマじゃないよ」
と毒づく私。
この“マスコミ”という単語には、週刊文春の比重が大きいに違いない。私はこういう言葉を聞くたびに、私の大切な職場が汚されたような気がする。ホント。
何年か前、私がいつも送っている文春のFAX番号が突然変わった。
「ハヤシさん、もうここに原稿送らないでください。こっちの番号にしてください」
「どうして」
「通報が多くて、この番号のFAXはフル稼動しているんです」
驚いた。不倫から企業の不正チクリまで、とにかく日本中みんなが週刊文春に向けて発信してくるのだ。
本当に貧乏なのか?
つい最近のこと、知り合いの方から長い長い手紙を貰った。地方の某企業のトップの方である。この方はあるスキャンダルにまき込まれているのであるが、これは全て仕掛けられた罠だというのである。
「ハヤシさんのお力で、週刊文春で記事にしてほしい」
こういう時、私は必ずこうお答えしている。
「私は何の力もありません。私がつき合うのはエッセイのやりとりをする担当編集者だけで、編集長にはふだんお会いしませんから」
とはいうものの、この方はかなりご高齢であり、切々とした長文(ちょうぶん)の手紙についホロリ[3]としてしまった。それで担当の編集者に、
「一度読んでくれませんか」
と手紙を送ったところ、会議にかけてくれたようである。そう、週刊文春は、ひとつひとつの通報をちゃんと精査し、会議にかけていたのだ。皆さんも知らなかったでしょ。
この件は結局ボツ[4]になり、申し訳ないことになった。
そう、多くの人たちは誤解しているのだ。
「週刊文春に売ってやる!」
とかよく言うが、あなた程度の知名度ではまず無理ですよ、と私は言いたいのである。
弁護士の方はどうであろうか。こちらはぐっとハードルが低いかも。国選弁護士の方もいるし、人権派の弁護士の方もいる。岸田総理を襲撃した彼も、すぐに有名弁護士に弁護を依頼しようとしていたのには驚いた。
「なんかなー」
という気がしないでもないが。
ところでゴールデンウィークを前に、日本中がうきうきした気分になっているのは否めない。まだ中国人の団体が来日していないというのに、観光地はどこも大変な人出である。コロナで貯めていたお金を使いたがっているとテレビは言う。
故郷の温泉に行こうと思ったら、どこの旅館も満員だ。おまけにものすごい値上がりである。
表参道に行けば、高級ブランド店に行列が出来ている。日本人の若い人たち。高級鮨店のカウンターにも、彼らはずらり並んでいる。
しかし新聞には、毎日のように暗い記事が載り、中高年の貧困について、
「自分がいけないのか、国がいけないのか」
という問いをつきつけられる。
これが格差ということらしいが、それにしては上の方のうきうき層がかなりアンバランスのような気がする。
この国は本当に貧乏なのか。
実はそうでもないのか。
誰かはっきりさせてほしい。
それからブランドショップに並ぶ、若い日本人はいったい何をしている人たちか、ちゃんとつきとめてほしい。
「IT関係」
とみんなは言うが、日本のIT関係ってそれほど数が多いのだろうか。謎は深まるばかり。わが母国の形を、ちゃんと明確にしてほしいと願うばかりである。
[1] にげ‐まど・う【逃(げ)惑う】‐まどふ[動ワ五(ハ四)] - どこへ逃げたらよいかわからず、うろうろする。逃げ迷う。「砲火の下を―・う」
[2] いい-かか・る イヒ― 【言ひ掛かる】 (動ラ四)〔「いいがかる」とも〕
- (1)話しかける。言い寄る。「うるさきたはぶれごと,―・り給ふを/源氏(玉鬘)」
-(2)言い出して意地になる。「あれも―・つた事ぢや程にききさうもない/狂言・犬山伏」
- (3)無理を言って相手を困らせる。言いがかりをつける。「利銀をきつと母屋からすまし給へと―・り/浮世草子・胸算用 1」
[3] ほろり [2][3] (副)(多く「と」を伴って)
(1)深く同情して涙を落とすさま。ほろっと。「身の上話を聞いて―と涙を流す」「観客を―とさせる感動的なシーン」「―となる」 (2)酒を飲んで軽く酔うさま。ほろっと。「―(と)酔う」 (3)軽く散り落ちるさま。はらりと。「朝顔と申す物は…夕べには―と落ちまする/狂言・呂蓮(虎寛本)」
[4] ぼつ【没】 (呉音はモツ) ①(ボツとも書く)採用しないこと。「企画を―にする」 ②(「歿」の通用字)死ぬこと。「1900年―」 ③(接頭語的に)無いこと。「―交渉」