夜ふけのなわとび 第1796回 2023/06/02
ボーン
池袋の駅前で、私の体は宙に舞った。
1ヶ月前のこと、お芝居を観に行った帰りである。
私はスニーカーを履いていた。この頃は、猫背気味になるのもよしとして、足元をちゃんと見る。ヒールのあるものはほとんど履かない。かなり用心していたのであるが、ついあたりを見わたした。一緒にいた人に、
「私、学生の頃、池袋に住んでいたことがあるの」
と話しかけた。
東京芸術劇場がある西口(にしぐち)にはしょっちゅう来ているのであるが、西武(せいぶ)がある東口(ひがしぐち)は何年かぶりだろう。
私が大学生の頃、西武の前はごちゃごちゃした(untidy, messy)商店街であった。その路地を入ったところにあんみつ屋(餡蜜屋)があり、私はそこでアルバイトをしていたのである。
思い出が次々と甦り(よみがえり)、
「懐かしいなあ……」
とあたりを見わたした時、小さな段差に私は躓いた(つまずいた)のである。
「キャーッ」
と女の人の悲鳴があがる。そして私はバタッとコンクリートに叩きつけられた。恥ずかしさと痛さ(いたさ)でしばらく起き上がれない。が、人の目もあるので、よろよろと立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
と連れ(つれ)に聞かれたが無言のまま。電車で帰るつもりだったが、タクシー乗場まで送ってもらった。
次の日になっても、すりむいた膝は痛い。そこはバンドエイド(band-aid)で何とかなったのであるが、ころんだ時、手で体をかばったらしい。右手の甲がずきずきと痛むのだ。
「ああ、私の黄金(おうごん)の右手(みぎて)が……」
ふざけてかかげてみる。パソコンを使わない私は、すべて手書きなのだ。しかも翌月は新刊が出て、500冊サインをすることになっているのだ。
だから手を休めればいいのに、私はすぐにLINEをうつ。自分の失敗は人に話さずにはいられないタチなのだ。
「昨日、池袋の駅前でころびました。トシはとりたくないもんですね」
するとたくさんの返事が。驚いた。みんな「転び」をカミングアウトしてきたのである。
「私も昨年、手首(てくび)を骨折(こっせつ)したの」
「転んで関節を折ったばかり。実は入院してました」
「私も街中(まちなか)でしょっちゅう転ぶ」
そして異口同音(いくどうおん)に、
「トシとったら、転ぶのこわいよ」
続けて、
「早く病院行きな」
とある。しかし私は行かなかった。忙しかったこともあるが、痛みはそのうち治るだろうとタカをくくっていたのだ。
が、1ヶ月たっても、突っ張るような(つっぱるような)痛さは治らない。それが腕の方にくる時もある。
というわけで、やっと重い腰を上げ、専門の医師のところに行った。レントゲンをとってもらったところ、骨には異常がなく、クッション部のナントカというところが炎症を起こしていることが判明。ものすごく痛い注射を打った。
「でもハヤシさんの骨は、すごくがっしりしてますよ」
とレントゲンを見ながら先生。
「骨質(こっしつ)がいいんですね。だから折れることもなかったんですよ」
そういえば、私の骨はしっかりと写っているような気がする。色も濃い。
それにしても、骨を誉められたのは初めてだ。出来ることなら、その上についている薄い皮を誉めてもらいたいものだ。
骨のある力士
そして治療の後は、楽しみにしていた国技館へ。この6、7年、私がにわか相撲ファンになっていることはご存知であろう。同郷(どうきょう)のお相撲さんを応援し始めたのがきっかけだ。
今日も同好(どうこう)の士2人と、中で待ち合わせている。1人はとんでもなく相撲に詳しく、いろいろ解説をしてくれる。冷えたビールと焼きトリを楽しみながら、目の前のお相撲さんを応援するのは至福(しふく)の時。
「△〇□、頑張れー!」
思えばコロナの真最中(まさいちゅう)、飲食も声を出すことも出来なかった。咳ばらいもはっきりと聞こえる静けさの中、行なわれる取組は、緊張感があり、いかにも競技という感じがよい。
「これからはお相撲もこうなるんじゃないの」
などとエラそうに言っていたけれど、コロナの規制がなくなった今、みんなビールを飲みながら大声をあげる。それはそれで、いかにもお相撲見物っぽくてよい。先日は座布団が、観戦中のデヴィ夫人(インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人)を直撃したとYahoo!ニュースに出ていた。
今日は「満員御礼(まんいんおんれい)」という幕もさがっていて、うきうきした気分になっている。しかし、コロナ禍での、一桝(いちます)に3人、というならわしは、すっかり定着したようだ。まわりを見わたしても、みんな3人だ。4人分払って3人で使う。4人で使うところはほとんどない。私のような体型(たいがた)の人間には、うれしい習慣である。
ところでお相撲さんというのは、よく転ぶ。土俵(どひょう)の下に落ちていく。毎日が交通事故に遭っているようなものらしい。
今日は非常に珍しい場面があった。投げとばされた力士が、土俵の上ででんぐり返しをしたのである。
「あんなこと出来るの?」
「運動神経があれば出来るはず。髷を結ってる(ゆってる)からそんなに痛くない。骨にも響かない。頭の骨も大丈夫」
そうかあ、頭にも骨があるんだとしみじみ思った私である。このところ、骨のことばかり考えている。