夜ふけのなわとび 第1790回

林 真理子 2023/04/14

ネーミング

 昔から不思議であった。

 どうして保険のレディと、ヤクルトレディは、あれほど職場の奥深く、ふつうに入ってくるのだろうか。

 勤めている時、大きな会社で打ち合わせをしていて、ふと顔を上げると、あきらかに社員ではない中年の女性が、にこやかに社員の人と談笑しているではないか。

「あの人、誰ですか?」

「保険のオバさんだよ」

 当時は、オバさんという呼称が許されていた。CMだってあった。

「ニッセイのオバちゃん、今日もまた、笑顔をはこんでいるだろな〜」

 という歌を憶えている人も多いだろう。

 CMに出てくるのは、ぽっちゃりとした、いかにも世話好きそうな初老の女性。自転車に乗って、あたりに挨拶する。

 しかし時代は変わり、呼称は「セールスレディ」になり、CMに出てくるのは、若く綺麗な女性。バリキャリを絵に描いたようなスーツを着ている。

「ヤクルトおばさん」も「ヤクルトレディ」に。こちらもCMに出てくる女性がぐっと若くなった。

 私は街で、ヤクルトレディを見かけると、よく呼び止めてヤクルトを買う。なぜかとても得したような気分になる。

 私が勤める日大の本部のロビイに、金曜日になるとやや年配のヤクルトレディが立つ。コロナ前は各フロアを歩いていたらしいが、今はこの場所と決められているようだ。

 見ていると若い職員がよく買いに来ている。

 私も何度か足を運ぶうち、すっかり顔なじみとなった。が、彼女は私のことをいつも、

「ガクチョー」

 と呼ぶ。何度訂正しても直らない。

「ガクチョー、中島ハルコのドラマ、本当に面白いわね。私はあれが大好きなのよ。中島ハルコって、ガクチョーのことでしょ。自分のこと書いてるんでしょ」

 いいえ違います、と何度言ってもいつも同じことを口にする。

 このあいだランチを食べに出たら、道の真ん中で彼女にばったり。

「ガクチョー、私、今度、停年退職なんですよ」

「ああ、それは残念ですね」

「今度の金曜日が最後です。必ず来てよね」

 金曜日ロビイに降りていったら、もう3、4人が並んでいた。小さな花束を渡している人もいる。壁には手づくりのポスターが。

「ヤクルトの〇〇さんが、今日退職されます。長いことありがとうございました」

 そのヤクルトレディさんは、皆に、

「私からです」

 と言って、黒酢を渡している。

 私は本部の職員たちの優しさに、すっかり心をうたれた。そしてこんなに愛されているヤクルトレディがいることにも。

何もわざわざ……  さて、このように美しい話の後に、黒岩神奈川県知事の話をするのはなんだけれど、これによっても、私は呼称について考えることとなった。

 この頃“愛人”たちがやたらと暴露をする。お互い独身ならば、名称は“恋人”となるが、どちらかが既婚者の場合は“愛人”となる。

 黒岩知事の記事を読んだ人は、あまりの下品さにヒェーッと驚くはず。こんなことを、キャスターをしているようなインテリの男性が言葉にするとは。

 しかし、と私は思い出す。それはつい先日、サントリーホールで上演された「愛の手紙〜恋文」というコンサートである。三枝成彰さんが、世界中の有名人が妻や恋人、あるいは愛人にあてたラブレターに曲をつけたもの。

 モーツァルトが妻コンスタンツェにあてたものは、「アワビ」なんかよりもっとえげつなかった。彼だけではない。ワーグナーも相当のものだ。

 世間で名士と呼ばれる人ほど、好きな女性の前では思いきり幼稚に、お下劣になるという見本である。

 それにしても、と多くの人は思うに違いない。

(どうして今さら)

 12年前のことを持ち出して、今さらどうするつもりだったのか。選挙妨害か。黒岩さんの人気はすごくて、このくらいのスキャンダルではどうということはない、というのが専らの見方らしい。

 私は単に、

「世間に知らせたかった」

 ということ以外にないと思っている。

 つい先日も別の週刊誌に出ていた、志村けんさんの最後の“恋人”といおうか、お気に入りの女性もそうだった。彼女はガールズバーに勤めていて、志村さんと知り合ったという。それはそれでいいとして、実はもうひとつの顔があり、女性をVIPに紹介する仕事もしていたんだと。そして志村さんにも何人かあてがっていたという。

 こう考えると、お金がからんだ関係である。何もわざわざ、志村さんが亡くなった後に暴露することもないと思う。

 私はこう考えるのであるが、キレイで若かった彼女たちも、ずうっとそのままではいられない。やがて年をとり、中年への道をたどる。

 そうした時、ふと自分の人生を振り返ると、最大の華やぎは有名人とつき合っていたことだということに気づく。結局は捨てられて、その時はその時で、お金や何だかんだで解決出来たと思っていた。しかし心は納得していなかったのである。

 このまま、誰にも知られることなく、自分の恋は闇に葬られるのであろうか。それはとても口惜しい。相手の男性は何くわぬ顔をして生きているではないか……。

 ということで、週刊文春のファックス番号あるいはメールアドレスを探っているのではなかろうか。

 これから女性たちが中年になるにつれ、こうした事件は増えていくに違いない。「愛人たちの反乱」。恋人たちはしないけど、愛人たちは立ち上がる時は立ち上がる。それにしても“愛人”に替わる名称はないだろうか。“婚外恋人”とか、“サブ妻”とか、もっとみんなが明るくなれるような……ないか。