池上彰のそこからですか!? 第569回 2023/05/11
沖縄戦犠牲者の遺骨が残っている
日本全体にとって「戦争が終わった日」は8月15日ですが、沖縄にとっては6月23日です。1945年、沖縄に上陸してきた米軍との戦闘で本島南部、今の糸満市(いとまんし)に追い詰められた日本軍の牛島満(うしじま みつる)司令官が6月22日に自決。翌23日に組織的な戦闘が終結したからです。毎年この日は沖縄にとって「慰霊の日」です。あれから78年目の6月がまもなくめぐってきます。
それを前に4月下旬、沖縄を取材しました。琉球放送の「慰霊の日特番」制作・出演のためです。
慰霊の日に沖縄県主催で式典が開かれるのは、糸満市摩文仁(まぶに)の丘。ここには沖縄戦などで亡くなった兵士や住民20万人を超える人たちの名前が刻まれた碑があります。「平和の礎(いしじ)」と呼ばれています。刻まれている名前は日本人ばかりではありません。台湾や朝鮮半島出身者の名前もあります。当時は台湾も朝鮮半島も日本領。日本人として亡くなった人たちです。
さらに特徴的なのは、戦死した米軍兵士の名前も刻まれていることです。戦争で亡くなった人たちについて、その立場に関わらず全ての人を追悼する。沖縄らしい優しさの発露(はつろ)とでもいいましょうか。米ワシントンにあるベトナム戦争戦没者慰霊碑に刻まれているのが米軍兵士だけに限られているのとは対照的です。
平和の礎のある丘に来ると、夥しい(おびただし・い)名前の列に圧倒されます。いかに沖縄戦が膨大な犠牲者を生んだかが実感できます。それもあって、ここは本土からやって来る「平和学習」の修学旅行生が必ず立ち寄る場所です。私の取材中にも、次々に生徒たちがやって来ました。学校の名誉のために敢えて名前は隠しますが、滋賀県の公立中学校の3年生たちにインタビューしました。滋賀県出身の兵士たちの名前が刻まれた碑の前で、「滋賀県出身者もこんなに亡くなったんだよ」と水を向けると、「知らなかった」と驚く女生徒たち。ここまでは良かったのですが、「どうしてここに来たんですか?」と私に聞くではありませんか。滋賀県の若者たちも沖縄で米軍と戦っていたことを知らなかったのです。
いささか戸惑いながら、「兵隊になって沖縄に行けと命令を受けたからだよ」と説明すると、「飛行機で来たのかなあ」という感想。いやいや現代のような大型の旅客機はありませんから、「蒸気機関車に乗って、東海道本線と山陽本線を乗り継いで広島で船に乗り換え、沖縄に来たはずだよ」と説明するのですが、飛行機で沖縄に来た彼女たちは得心がいかない様子です。
次に男子生徒にも聞いてみました。仲良し3人組でした。「沖縄で戦争が終わったのは6月23日なんだよ」と説明しても、当然のことながら知りませんでした。そこで、「そもそも日本が戦争を止めたのは8月15日だよね」と話しかけると、「えー、知らなかった」と答えるではありませんか。今度はこちらが驚いてしまいます。横にいた校長先生が頭を抱えています。
「平和学習」といっても、沖縄に行く前の事前学習が大切なのですね。
いまも残る遺骨の数々
などと偉そうなことを言う資格は、私にもありません。私も今回、知らないことを新たに知りました。それを知ることができたのは、いまも沖縄戦で亡くなった戦没者の遺骨をボランティアで収集している人に出会ったからです。那覇市に住む具志堅隆松(ぐしけん たかまつ)さん(69)です。
具志堅さんに会うまで私は沖縄戦の戦没者の遺骨は全て収集済みだと思っていました。しかし、そうではなかったのですね。
具志堅さんによると、戦後、沖縄では各地に遺骨が散乱したままになっていたというのです。それでも道路整備や農地の開墾のたびに見つかる遺骨は収集され、摩文仁(まぶに)の丘に建立された国立沖縄戦没者墓苑(ぼえん)に納められてきました。
ところが、森林や崖など人の手が入っていない場所に関しては調査がされていないというのです。そこで具志堅さんは、土日などを利用して遺骨を収集しています。その様子を見せていただきました。遺骨収集は、闇雲(やみくも)に探しているわけではありません。当時の状況について生存者に話を聞き、亡くなった人たちの遺骨が残っていそうな場所を推定してきたのです。
摩文仁の丘の周辺は沖縄戦末期に激戦地になったため、ガマと呼ばれる洞窟に潜んでいた日本兵や住民たちは米軍に追われ、洞窟を出て丘陵を登って避難したというのです。
これに対し米軍は、海岸の沖合から艦砲射撃で砲弾を撃ち込んだり、上陸した米兵は近距離から迫撃砲(はくげきほう)で攻撃したりしました。この砲弾の直撃を受けて、大勢の人が亡くなったのです。
そこで具志堅さんは、地形を観察。米軍の追手(おい-て、おうて)から逃げようとした人たちは、丘に登りやすい場所を選んだはずだと推理。細い登山ルートのようになっている場所を見つけます。そのルート上で、枯れ枝などを払いのけ、表面の腐葉土(ふようど)を取り除いていくと、細かく砕かれた骨片(こっぺん)が次々に見つかるではありませんか。遺骨の発見など大変困難なことだと思っていたので驚きました。
でも、その骨片は、それぞれ僅か数センチほどしかありません。なぜ細かく砕かれているのか。それは、米軍の迫撃砲の直撃を受け、体がバラバラになったからだろうというのが具志堅さんの考えです。事実、その周辺で迫撃砲弾の破片とみられる金属の塊も見つかりました。
新たに発見された遺骨は、沖縄県庁に引き渡され、身元が判明しないものは国立墓苑に納められます。
それにしても、と思います。あれから78年。日本を守るために全国各地から沖縄に送り込まれた若き兵士たち。住んでいた場所が突然戦場になったために命を落とした人々。それらの人たちの遺骨を収集するのは、国家としての最低限の責務ではないかと思うのです。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進[1])。鹿児島県鹿児島市出身。日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。 温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市、南京市攻略戦に参加した。 沖縄戦においては、第32軍を指揮し自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。