町山智浩の言霊USA 第671回 2023/04/29
BEEF(不平、悪罵(あくば))
ホームセンターの駐車場で車を出そうとバックしたら、後ろを通ろうとしたベンツ(!)から強烈にクラクションを鳴らされた。窓越しに見てみると、ベンツの運転席から出た手(でたて)が中指立てて(ちゅうゆびだてて)FUCKサイン! ケンカ売ってんのか、この野郎!
それがNetflixで今、いちばん面白いドラマ『BEEF/ビーフ〜逆上〜』の始まり。この場合、BEEFは「牛肉」じゃなくて「不平」「悪罵」を意味するスラング。なぜ牛肉が悪罵なのか、由来は諸説あってはっきりしない。
FUCKサインを出されたのはダニー。仕事はハンディマン(便利屋)。家の修繕から庭の木の枝払いまで何でもする。逆にいうと、ちゃんとした仕事がない40歳手前。弟のポール(無職の引きこもり)と2人で狭いモーテル住まい。カリフォルニアの青い空を見上げて、人生に絶望したダニーは自殺しようとしていた。そこを金持ちそうなベンツに煽られてムカーっとして、カーチェイスになる。
『BEEF』のクリエイター、イ・サンジンは自分の体験から、この導入部を思いついたという。「本当はベンツじゃなくてBMWだった。僕は追いかけなかったけど、もし、どこまでも追いかけていったら? と想像したんだ」
ベンツに乗っていたのはエイミー。ダニーと同じ年だが、ハイエンドな植木屋チェーンで成功して、ロサンジェルスの高級住宅地に数億円の豪邸(ごうてい)を建てた。夫ジョージはハンサムな陶芸家で、主夫(しゅふ、a househusband ; a stay-at-home dad.)として幼い長女の面倒もみてくれる。ダニーが地獄ならエイミーは天国にいるように見える。
ところが、エイミーは独りになると、金庫に保管してある拳銃を取り出す。その拳銃を股間(こかん)にあててオナニーを始める。おいおい! ピンポーン。ドアを開けると、そこにいたのはダニー……。
『BEEF』は「おいおい! それはないだろ!」という5分先が予想不可能な展開が続き、ダニーとエイミーの攻防戦は雪ダルマ式に拡大。ゲラゲラ笑ってるうちに10話イッキ観はアッという間。最後は大惨事!
あ、ひとつ言うのを忘れてた。『BEEF』の登場人物はほとんどアジア系アメリカ人なのだ。
ダニーは幼い頃、両親と一緒に韓国からアメリカに移住した。ダニーを演じるスティーヴン・ユァンも、イ・サンジンもそうなのだ。ダニーの両親は最初は酒屋(さかや)、次にモーテルを経営するが、失敗して韓国に帰った。ダニーの夢は自分の家を建てて両親をアメリカに呼び寄せること。夢に挫けた(くじけた)彼を救うのは韓国系キリスト教会。ダニーは教会のバンドでインキュバスの「ドライブ」をエモーショナルに歌うのだが、その上手い(うまい)こと! 実はスティーヴン・ユァン自身が韓国系教会で歌を歌っていた。
エイミーの父は中国系、母は中国系のベトナム難民。夫ジョージは日系人だが、稼ぎはエイミーにはるかに及ばない。エイミーを演じるアリ・ウォンもそう。ウォンは「ち×こ」「ま×こ」を連呼するド下品トークで大人気のスタンダップ・コメディアン。Netflixの一人舞台番組2本で契約金数千万ドル! 彼女の夫は日系のビジネスマンだが稼ぎは妻にとても届かない。それをアリ・ウォンは「うちのダンナは今頃、子どもの面倒みながら私の番組を家で観てるわよ。私が建てた家でね!」とジョークにしていたが、それが原因か、昨年、離婚した。
アジア系独特の価値観
『BEEF』は作り手側の実体験をドラマに反映させながら、アジア系アメリカ人として生きるプレッシャーを描く。「アジア系の親は子どもの通信簿はAしか許さない。血液型がB型でも叱る」というジョークもある。アジア系は真面目で、礼儀正しく、成績優秀で、自己主張をしない。犯罪率が低く、政治的発言をせず、経済的に成功する……ことを期待される。
その型から外れたダニーは自己嫌悪に苛まれ(さいなまれた)、「できるアジア系」を必死に演じてきたエイミーも疲れ切っている。
夫婦の危機に陥ったエイミーはカウンセリングを受けるが効き目なし。自分の本当の気持ちを言わないから。夫からは「ポジティブなことだけ考えよう」と言われ、母からは「自分の気持ちを言うのはわがまま」と言われて育てられた。
『BEEF』は10話かけてダニーとエイミーの心の奥底(おくそこ)へと降りていく。そこに隠されていたのは、ふたりを縛ってきた「子は親を敬う(うやまう)」「長男はすべてを背負う」「妻は夫を立てる」「本音を出すのは恥」などのアジア系独特の価値観だった。
『BEEF』に限らず、最近のハリウッドはアジア系独特の問題をテーマにした作品が増えてきた。ピクサーのアニメ『私ときどきレッサーパンダ』は、優等生だった中国系の少女が、思春期にアイドルに夢中になる。性的に目覚めた(めさめた)彼女は巨大なレッサーパンダに変身してしまうが、それを許さない母との壮絶なバトル(そうぜつなbattle)が始まる。
アカデミー賞を独占した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)』も、香港から移民して苦労した母エヴリンは、大学中退したニートの娘がレズビアンなので失望する。しかし、エヴリンの心の奥底には「男じゃなく女が生まれてがっかりした」と実の父に言われたトラウマが隠されていた。そこは『BEEF』のエイミーとまったく同じだ。
ウチ? うちの娘は親に向かって「ジジイ、うぜえよ!」とか言いたい放題ですよ。まあ、親が言いたい放題だからねえ。
うぜえ(うぜー)は、面倒だ、鬱陶しい(うっとうしい)という意味の若者言葉(俗語)をいいます。
- アリ・ウォン
- アレクサンドラ・ドーン ・"アリ"・ウォン(Alexandra Dawn "Ali" Wong、1982年4月19日生まれ) は、アメリカのコメディアン、女優(じょゆう)、作家である。Netflixのスタンドアップ・コメディ『アリ・ウォンのオメデタ人生?!』と『アリ・ウォンの人妻って大変!』で有名であり、どちらも批評家から絶賛されている。2019年に、映画『いつかはマイ・ベイビー』で主演を務めたことでも知られており、共演者のランドール・パークと共同で製作・脚本を担当した。2020年現在、ABCテレビ番組「アメリカン・ハウスワイフ」のメインキャストを務めている。出演作は、「Are You There, Chelsea?」「Inside Amy Schumer,」「Black Box」などである。脚本家として、テレビ番組「フアン家のアメリカ開拓記」のシーズン1〜3を担当している。声優として、アニメシリーズ「トゥカ&バーティー 」では、主人公"バーティー"の声を、「ビッグマウス」では転校生の "アリ "の声を担当している。
- タイムズ誌の2020年世界で最も影響力のある100人に選ばれた。