町山智浩の言霊USA 第685回 2023/08/12
We're like a child that's been battered(私たちは虐待された子どもなんです)
ヨーロッパ最貧国だったアイルランドがなぜ現在、1人あたりGDP世界第2位の豊かな国になったのか? という話の続き。
前回書いた通り、筆者はパスポートを盗まれてアイルランドから動けなくなったので、時間を持て余して、首都ダブリンから第二の都市コークへのバスツアーに参加した。走っている間、運転手兼ガイドのアレックスがこんな話をした。
「オッケー、1840年代のいわゆる『ポテト飢饉』について話そう。でも実際は飢饉なんてなかった。ジャガイモはアイルランド人の主食だったけど、ジャガイモが病気で死んでも、他に肉や野菜や魚もあった。でも、当時アイルランドを支配していた英国はそれを奪って英国に送ったんだ」
後で気づいたのだが、アレックスの言葉はアイルランドの女性歌手シネイド・オコナーが1994年にラップした「飢饉」の歌詞の引用だった。
「飢饉」でオコナーは、「ポテト飢饉の間に人口800万だったアイルランドはその8分の1以上が死に、海外に脱出しました。そのトラウマでアイルランド人は英国から独立した後も酒やドラッグに溺れ、子どもを虐待(ぎゃくたい)し、北アイルランドの内戦で殺し合ってるんです」と歌った。
「私たち(アイルランド人)は虐待された子どもなんです」
そう歌うオコナー自身がそうだった。
1966年ダブリンに生まれたオコナーは幼い頃に両親が別居して母親に引き取られたが、母はオコナーを性的に虐待した。オコナーは父の元に逃げ込んだが、中学生になると万引き(まんびき)や不登校を繰り返す彼女を父はマグダレン修道院に入れた。そこは未婚の母を監禁して強制労働させる過酷な矯正所(きょうせいじょ))だった。当時のアイルランドはカトリックの価値観に縛られ、中絶も避妊も、離婚すら許されなかった。
アイルランドをカトリックから解放したのは1990年にアイルランドで初の女性大統領になったメアリー・ロビンソンだった。彼女は離婚も避妊も同性愛も合法化(ごうほうか)した。マグダレン修道院は閉鎖された。解き放たれたアイルランドは急激に発展した。90年代後半、GDPは年平均約9%で上昇した。その獰猛(どうもう)なほどの経済成長はケルティック・タイガーと呼ばれた(アイルランドに虎はいないけど)。
2008年の世界的金融危機でケルティック・タイガーもいったん勢いを止めたが、2015年にはGDPがいっきに26%もジャンプする。法人税を下げてアップルやグーグル、マイクロソフトなどの多国籍企業の子会社をアイルランドに呼び込んだのだ。iPhoneの世界的売り上げは(税逃れ(ぜいのがれ)の一環として)アイルランドで課税されていたし、ボトックス(肉毒素注射)やバイアグラの世界最大手はアイルランドに工場を置いている。以前よりもさらに高く舞い上がったアイルランドの経済はケルティック・フェニックスと呼ばれた。
また、英国が移民を嫌ってEU(欧州連合)を脱退したので、ロンドンに集中していた世界の金融や保険企業がダブリンに移った。EUを抜けた英国の経済は低迷し、現在、国民1人当たりGDPはかつての植民地アイルランドの半分。アイルランドはポテト飢饉のトラウマを克服(こくふく)したのだ。
だが、シネイド・オコナーはそうではなかった。
1990年、プリンス作曲の「愛の哀しみ(かなしみ)」を歌って大ヒットした。MVで、オコナーは彫刻のように端正な顔に丸く刈り上げた頭、アイルランドの伝統的な歌唱法(かしょうほう)で切々と歌い上げる。その大きな目から涙がこぼれるのは、彼女が18歳の時に交通事故で死んだ母を想ったからだという。
「愛の哀しみ」を収録したアルバム『蒼い囁き(あおいささやき)』は全世界で700万枚も売れた。これでスーパースターになったオコナーだが、1992年、アメリカのテレビの生出演で大事件を起こす。当時のバチカンの教皇(きょうおう、きょうこう)ヨハネ・パウロ二世の写真を引き裂いて見せて、「本当の敵と戦え!」と言ったのだ。カトリック神父(しんぷ)による子どもへの性的虐待に対する抗議だったが、それで世界に13億人いるカトリックを敵に回してしまった。当時、被害者の告発を信者の多くは信じていなかったのだ。
彼女は正しかった
コンサートでブーイングされ、CDの売り上げは下がり、テレビやラジオも彼女を敬遠した。オコナーは孤立(こりつ)したが、過激な発言をやめなかった。
2007年、オコナーはテレビで双極性障害(そうきょくせいしょうがい)だと告白した。「遺伝的なものではなく、私が経験した暴力のせいです」と彼女は語った。
幼い頃から辛い人生ではあったが、教皇の写真を破いた時、世間がもっと彼女に味方していたら、ここまで追い詰められはしなかっただろう。その後、バチカンは司祭による児童の性的虐待は事実だと認めた。しかも、全世界で4000人を超える聖職者が1万を超える未成年の信者に性的行為を強制していたと報じられた。
シネイド・オコナーは正しかったのだ。
「バチカンは悪魔の巣」とまで言ったオコナーは、2018年、ローマ教皇に「破門証明書をください」という公開書簡を出して、なんとイスラム教に改宗した。
そして2023年7月26日、シネイド・オコナーが亡くなったと発表された。死因はまだ公表されていないが、2022年に17歳の息子シェーンが自殺して以来、何度も自殺願望を訴えていた。
バスツアーの帰り、アレックスは「皆さんの好きなアイルランド人の歌を書いてくれれば流しますよ」と言って乗客に紙とペンを回した。自分は「愛の哀しみ」と書いた。それを車内に流しながらアレックスは言った。
「シネイド・オコナーに何があろうと、アイルランドは彼女を愛しています」
- シネイド・オコナー
ダブリン生まれ。 両親の不仲と離別、カトリックの厳格な生活に対する反発によってすさんだ少女時代を過ごしたことは、その後のオコナーの公私の活動に大きな影響を与えることになった。 母親の事故死の後、ロンドンに移って音楽活動を続けた。 1987年のファースト・アルバム『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』 (The Lion and the Cobra) は穏やかさと攻撃性とが去来する(きょらい)作風の曲が特徴である。 こうしたアンビバレント性はスキンヘッドという彼女のスタイルにも、カトリックに対しての愛憎(あいぞう)の念が入り混じる言動にも表れている。 ちなみに「the lion and the cobra」は旧約聖書の詩篇に現れる言葉で悪魔の隠喩(いんゆ)である。
1990年のセカンド・アルバム『蒼い囁き』 (I Do Not Want What I Haven't Got、1990年) からシングル・カットされた、プリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」が世界中で大ヒットし、アルバムは英米で1位を記録した。デビュー当時からの過激な言動も相変わらずであり、例えばアメリカのツアー会場で習慣となっていたコンサート前のアメリカ国歌を拒否して騒がれた。とりわけ1992年10月『サタデー・ナイト・ライブ』の生放送中に「真の敵」だとしてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破ったことにより大きな物議を醸し(かもし)、直後のボブ・ディランのトリビュート・コンサートに参加した際には大ブーイングを浴びながら一人だけボブ・マーリーの「War」を歌うことになった[1][2]。
その後は過激さは影を潜め、さらに1999年にはキリスト教系の新興宗教団体である独立カトリック教会の「女性司祭」となって人々を驚かせた。発表作もレゲエやアイリッシュ・トラディショナル、スタンダードのカヴァーなど伝統的な色彩が濃くなっている。2003年に一旦引退を発表し音楽活動を休止していたが、2005年にレゲエのカヴァー・アルバム『スロウ・ダウン・ユア・アームズ』 (Throw Down Your Arms) で復帰した。
2018年、イスラム教への改宗を公表。「シュハダ・サダカット (Shuhada' Sadaqat)」と改名した。
2023年7月26日、長年にわたるメンタルヘルスとの闘いの末、死去。56歳没。
ロンドン警察庁は「不審死として扱っていない」と発表したが、医学的な死因解明のために検視解剖が指示された。