町山智浩の言霊USA 第686回 2023/08/25
I do not have a vagina.(私にはヴァギナがないの)
「人類の始まりから、女の子たちはお人形遊びをしていました。それはいつだって赤ちゃんの人形でした」
映画『バービー』は、少女たちがエプロンをつけて赤ちゃん人形とおままごとをする姿で始まる。おままごとは母親になるための練習だった。
ところが1959年にアメリカで発売された着せ替え(きせかえ)人形バービーは画期的(かっきてき)だった。モデル体型で化粧は濃く、着せ替え服はパーティ向けが基本。それまでの社会が女性に押し付けていた「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」の正反対だった。
バービーで解放された少女たちは赤ちゃん人形を叩き壊す。それは『2001年宇宙の旅』で人類の祖先が初めて「武器(こん棒)」を手にして興奮する「人類の夜明け」のパロディだが、このオープニングだけで、この映画、出資元はバービーの発売元マテル社だが、子どもにおもちゃを売るための映画じゃないことがわかる。
監督はグレタ・ガーウィグ。脚本・主演作『フランシス・ハ』ではニューヨークの地下鉄のホームでお尻まくって立小便してみせた(女性ですよ)。『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』では、『若草物語(わかくさものがたり)』の原作者オルコットが非異性愛者だったのに出版社に無理やりヒロインが結婚する展開を強いられたこと自体を盛り込んだ。
映画『バービー』はアメリカでPG13指定(13歳未満には不適切)。なにしろバービー(マーゴット・ロビー)が「私にはヴァギナがないの」と言ってしまう映画だから(日本語の吹き替えはどうなってるの?)。
バービーはバービーランドに住んでいる。ピンクできらきらしたプラスチックのオモチャの国。警官も弁護士も消防士も宇宙飛行士もみんなバービー。これはみんな商品化されている。1960年代後半、女性解放運動と雇用機会均等法で女性の社会進出が進み、それに合わせてバービーの職業も拡がった。
「女の子は何にだってなれる!」
日本のリカちゃんは看護婦さんとスチュワーデスさんだったけど、バービーは外科医と飛行機のキャプテンなのだ。
バービーランドの大統領もバービー。彼女はアフリカ系だ。やはり1960年代後半の公民権運動を反映して、バービーも黒人、ラティーノ、アジア系が売り出された。
さらにバービーランドにはぽっちゃり(chubby、plump)バービーや車椅子バービーもいる。1987年、トッド・ヘインズ監督がバービー人形を使って、カーペンターズのカレン・カーペンターの伝記映画を作った。カレンは太りすぎを気にして拒食症で死んだ。バービーのようなモデル体型を理想として少女たちに刷り込む危険が論じられ、さまざまな体型のバービーが売り出された。バービーランドには背中にビデオゲームを組み込まれたバービーも登場するが、それも実際に発売された(全然売れなかった)。
バービーランドは女性が支配するユートピア。でも、ヒロインのバービーは突然、老いと死の恐怖に襲われる。プラスチックなのに太ももに(cellulite)が出てしまう!
その原因を求めて、バービーは現実世界に飛び出す。勝手について来ちゃったのはケン。ケンにはバービーのボーイフレンドという以外の何のアイデンティティもないから、バービーなしではいられなかったのだ。ケン役のライアン・ゴズリングは42歳の二児の父だが、腹筋ムキムキで頭空っぽのケンを実に楽しそうに演じている。
ところが現実世界はバービーランドのようには女性は社会進出していなかった。アメリカでも女の子が何にだってなれるわけじゃない。バービーを作っているマテル社ですら重役は全員男だった。
ショックを受けるバービーだが、逆にケンは大喜び。
「家父長制、スゲえ!」
ケンはバービーランドに戻って男たちの反乱を起こす。
「そんなの無理でしょ!」
バービーは自分の老いの原因が、マテル社のバービー担当者グロリア(アメリカ・フェレーラ)の不安にあることを知る。グロリアはバービーで育ち、憧れのマテル社に入社したが、現実がバービーランドのようでないことに苦しんできた。
「女性として生きるって不可能なミッションよ」
グロリアのスピーチはこの映画のクライマックスだ。
「いつも完璧であることを求められる。太りすぎても、やせすぎてもいけない。でも、やせないとデブと言われる。女性は経済的に自立しろと言われる。でも、男性と平等な賃金を求めると卑しいと言われる。リーダーになれと言われるけど、女が威張るなと言われる。母になりなさいと言われるけど、子どものことを職場で話すと嫌がられる。男性の失礼な態度を指摘すると文句の多い女と言われる。いつも綺麗でいろと言われるけど、綺麗すぎちゃいけない。男を誘っていると言われるから」
グロリアは叫び始める。
「いつも若々しく、優しく、目立たず、周りに気をつかい、疲れず、失敗せず、勇敢に……。そんなの無理でしょ! 矛盾してるし。それを頑張っても誰にも褒められないけど、できないと責められる! もう疲れた。すべての女性は人から好かれるために自分を縛ってるのよ!」
『バービー』はピンク色のきらきらした画面から、女性たちの怒りと悲しみを観客にぶつけてくる。そしてバービーの最後の選択は実に哲学的。『バービー』を観た少女たちには10年後にしみてくるだろう。
こんな革命的な映画に莫大な予算を出したマテル社ってホントに太っ腹! ちなみに本当はマテル社の重役は11人中5人が女性です。