町山智浩の言霊USA 第676回 2023/06/10
The Queen of Rock'n Roll(ロックンロールの女王)
「ロックンロール(rock 'n' roll; rock and roll)の女王」、ティナ・ターナーがスイスの自宅で亡くなった。83歳だった。
元夫(もとおっと)アイク・ターナーが1951年に録音した「ロケット88」は、コード進行とリズムにおいて最初のロックンロールと言われている。つまりアイクは「ロックの父」なのに、まるで(although)尊敬されていない。ティナにしたことがひどすぎたからだ。
ティナの本名(ほんみょう)はアンナ・メイ。18歳の頃、アイクのバンドのライブで、客席に差し出されたマイクをつかんで歌って、ボーカルに抜擢された。アイクは当時人気のテレビ番組『ジャングルの女王シーナ』と似た語感を狙って(ねらって)彼女にティナと名付けた。
アイク&ティナ・ターナーのデビュー曲「フール・イン・ラブ」(1960年)はミリオン・セラー(million seller)。1966年にはローリング・ストーンズと全英、69年には全米をツアー。71年にCCRの「プラウド・メアリー」をカバーして大ヒット、グラミー賞を受賞した。ミニスカートにピンヒールでエネルギッシュ(energetic) にダンスし続けてシャウトするティナは「ダイナマイト」と呼ばれた。
しかし、私生活は地獄(じごく)だった。
ティナは最初、アイクのバンドのメンバーの恋人で、彼の子を妊娠していたが、アイクが横取り(よこどり)した。その時、アイクには5番目の妻がいた。彼女は2人の息子を置いて去っていった。その子たちをティナは自分の息子と一緒に育てた。アイクはティナが妊娠中も休ませずに働かせた。「あの男のために昼も夜も働いた/一分も眠る時間はなかった」という「プラウド・メアリー(Proud Mary)」の歌詞はティナの現実だった。
ティナが注目されるほど、アイクは嫉妬でティナを殴った。息子たちの目の前で、顔面を骨折して入院するほど。アイクはコカイン(cocaine)中毒になり、虐待はひどくなっていった。しかしティナはアイクを離れなかった。後に彼女は「洗脳(せんのう)されてたのよ」と語っている。
その洗脳を解いたのは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」だった。創価学会(そうかがっかい)に勧誘されたのだ。ティナの半生を描いた映画『TINA ティナ』(1993年、原題は『What's Love Got to Do with It』(愛とそれと何の関係があるの?))で、アンジェラ・バセット扮するティナが御本尊(ごほんぞん)の前に正座してお題目を唱えるシーンで日本の観客はざわめいた。
1976年7月1日、コンサートのためにテキサス州ダラスに着いたティナをアイクはまた殴った。ホテルでアイクが眠っている間にティナはついに逃げ出した。ポケットには36セントしか入ってなかった。アイクからティナを匿った(かくまった(のは、映画『トミー』で共演した女優アン=マーグレットだったそうな。
裁判の果てに離婚は成立したが、今まで築いたアイク&ティナ・ターナーの音楽的な権利と財産はすべて奪われた。彼女に残されたのは4人の息子の親権と、ティナ・ターナーという芸名だけだった。
レコード会社との契約も失い、生活のためのドサ回り(road show)が始まった。ところがロックやソウルからディスコの時代になっており、ティナは「かつてのスター」扱いされることも多かった。
そんな彼女が1981年、雑誌『ピープル』のインタビューに応えた(こたえた)。アイクとの悲惨な結婚生活を赤裸々(せきらら)に語り、虐待に苦しむ女性たちから爆発的な共感を呼んだ。ローリング・ストーンズやデヴィッド・ボウイ、ロッド・スチュワートなど、かつての盟友たちもティナの復活に手を貸し始めた。
45歳で完全復活
1984年、アルバム『プライベート・ダンサー』が1000万枚を超えるメガヒット。シングル『愛の魔力』(原題は前出(ぜんしゅつ)の映画と同じ)は3週連続ナンバーワン。翌85年の映画『マッドマックス/サンダードーム』では核戦争後の荒野に君臨する「女王」を演じ、「ライブ・エイド」や「ウィ・アー・ザ・ワールド」にも参加。45歳で「ロックの女王」が完全復活した。
86年には自伝『愛は傷だらけ』(原題は『I, Tina』(私はティナ))が世界的なベストセラーに。前述したように93年には『TINA ティナ』として映画化されて、それも大ヒット。アイクを演じたローレンス・フィッシュバーンは役と本人を混同した人たちから「クソDV野郎!」と言われ続けたという。
ティナはその映画を観ていないという。虐待がフラッシュバックするから。2021年に公開されたドキュメンタリー『TINA』(これは原題! ややこし!)で、彼女は「愛のない結婚から逃げられなかったのは、父からも母からも愛されなかったから」と分析している。ティナが幼い頃、両親は離婚し、彼女は祖母に育てられた。だからティナはアイクと前妻の息子たちにも愛情を注いだ。
世界各地で何万人も集まるスタジアムでコンサートをするようになっても孤独だったティナ。彼女に愛を捧げる男性アーウィン・バッハと会ったのは1986年。レコード会社の担当者で16歳下のアーウィンがいくら求婚しても、結婚にトラウマのあるティナは断り続けた。
2009年のデビュー50周年ツアーで、70歳のティナはミニスカートにピンヒールで踊りまくって女王のまま引退した。2013年、ついにティナはアーウィンの指輪を受け取り、2017年、腎不全を起こしたティナに、アーウィンが自分の腎臓を一つ分け与えた。
2019年、彼女の生涯をミュージカルにした『Tina』(原題!)のプレミアでNYを訪れたのがアメリカの土を踏んだ最後で、その後はずっと夫の故郷スイスで暮らしていた。
しかし、ロックンロールの女王が、最後はバッハの妻になったなんてね!
- アーウィン・バッハ
- ティナ・ターナー(Tina Turner、本名:アンナ・メイ・ブロック・バーク(英語: Anna Mae Bullock-Bach)、1939年11月26日 - 2023年5月24日)は、アメリカ合衆国出身の女性歌手、ダンサー、女優[1][2]。同国南部に生まれ育ち、2013年にはスイスの市民権を得ている[3]。芸歴は65年以上に及び、1984年に代表曲「愛の魔力」などヒットを多数生み「ロックンロールの女王」と呼ばれ、幅広い層のファンに認められており、多くの受賞歴を持つ。
追悼・ティナ・ターナー、83歳で死去。家庭内暴力に苦しんだ人生と、その功績を振り返る
音楽界のレジェンド、ティナ・ターナーが、2023年5月26日にこの世を去った。ティナはDV(家庭内暴力)サバイバーとしての経験を公に(おおやけに)語った最初の著名人のひとりであり、そのオープンな姿勢は画期的だった。彼女の死去後、多くの社会活動家やDV(家庭内暴力)サバイバーたちが彼女に深い敬意を表している。
死んだように生きた毎日
ティナ・ターナーは1981年、初めて自身の虐待体験を米週刊誌「ピープル」に公表した。その後も自伝やインタビューで、1962年に歌手のアイク・ターナーと結婚後、約16年間にわたる結婚生活で受けた拷問、骨折や屈辱、舞台で彼と共演する前に受けていた暴行について語った。
そして2021年に放送された自身のドキュメンタリー番組「Tina(ティナ)」の中で、結婚当時を次のように振り返った。「当時、私は死んだように生きていた。まるでそこに存在しないかのようだった。それでもなんとか生き延び、アイクの元を去り、歩き出した。そして振り返ることはなかった」と述べた。
自らのDV体験を語ることで人々に勇気と希望を与えた
離婚当時、ティナはすでにスターであったが、一層活躍の場を広げ、ロックンロールの女王として称されるようになった。英慈善団体Women's Aid(ウーマンズ・エイド)の最高経営責任者、ファラ・ナジール氏は、「ティナ・ターナーのような成功した女性が、辛い経験を乗り越え、成功と回復を手にした事実を自ら語ったことは、多くの勇気と希望を与えました。有害な関係や束縛からも脱却できることをティナは伝えたかったのです。ティナような偉大なセレブがこのような発言することは、非常に強力なメッセージとなります」と述べた。