町山智浩の言霊USA 第684回 2023/08/05
Irish Diaspora(アイルランド人世界離散)
アイルランドにいます。出られないのです。パスポートとグリーンカードをスリに盗られたので……。
そもそもなぜアイルランドに来ることになったのか。去年の終わりに、『イニシェリン島の精霊』という映画を観たから。1920年代のアイルランドの孤島が舞台。とにかく風景には一本の木もない。石灰岩の上に薄っすらと乗ったわずかな土に生えた草が、どんよりと垂れ込める鉛色の雲の下、どこまでも広がっている。人々の楽しみはギネスビールと民謡だけ。
「アイルランドはあまりに貧しすぎる。あんな土地に生まれたら絶対出てく」
映画を観終わった後、肩をすくめてそう言うとカミさんが怒った。
「その上から目線やめなよ。本当はいいところかもしれないでしょ。行ってみてから言いなよ」
というわけで実際に来てみた。
アイルランドの首都ダブリンの街に出て驚いた。
ジェイムス・ジョイスが歩いた石畳や伝統的な石造りの街並みはそのまま、交通機関やトイレや公共の場所はもうピカピカにハイテクで清潔。我がサンフランシスコとは違って道にはゴミも落ちてないし、どの軒にもカラフルな花が飾られ、カフェのテラスではおしゃれな若者たちが談笑し、パブからは昼間でも生演奏のケルト民謡が流れ、何よりも道行く人がみんな明るい笑顔で、ホテルやレストランの人たちもみんなフレンドリーで優しく、まるでハリウッド・ミュージカルみたいに歌って踊りだしそうなハッピーな雰囲気なのだ。
おかげでつい気が緩んで、パスポートとグリーンカードをリュックに入れたまま外出してスリにやられた。というのも、アイルランドは夏でも摂氏20度前後で、42度以上の猛暑に苦しむスペインやイタリアやフランスから避暑、というより逃げてきた人たちでごったがえしていて、ついでにスリも集まってきてるそうだ。
それもそのはず、アイルランドの国民1人あたりGDPは世界第2位(1位は人口わずか63万人のルクセンブルク大公国)! 貧困率はたった5.3%(日本は16%)と貧富の差はなく、年金平均受給額は月約17万円! そりゃ、みんなハッピーになるよ。
自分は昔のアイルランドのイメージしか知らなかった。実際、アイルランドはヨーロッパでも最貧国だった。石灰岩だらけのうえに毎日雨が降り、太陽がめったに出ないので穀物も野菜も育たない。アメリカ大陸から輸入されたジャガイモを育てて、それを主食としたが、1840年代にジャガイモが伝染病にやられて、ジャガイモに依存していたアイルランドは飢饉に陥った。その死者100万人以上という。
「でも飢饉で100万人死んだわけじゃないよ」
ガイドをしてくれたアレックスは言った。「英国人のせいさ」
アイルランドはヘンリー8世、クロムウェル、ウィリアム3世と何度もイングランドから侵略され、400年近く英国の支配下に置かれた。アングロ・サクソンのプロテスタントである英国人は、ケルト系でカトリックのアイルランド人を異民族として蔑視した。カトリックが土地を所有することを禁じた。英国の貴族たちは領主として君臨し、アイルランド人は小作人として領主に年貢を納めた。
ジャガイモ飢饉になっても領主は年貢を取り立て、払えない小作人の家を破壊した。
「アイルランドでもジャガイモ以外の食べ物はあったさ」アレックスは言う。「羊や牛は山ほどいるし、周りは全部海だから魚も取れる。でも領主たちはそれを全部アイルランド人から取り上げて英国に輸出したんだ。いわゆる飢餓輸出だよ」
1840年代当時、英国では産業革命が起きていた。重工業が発展し、農民は工場労働者となり、人口が拡大したが食料自給率が落ちた。そこでアイルランドから食料を奪った。
「飢饉じゃない。ジェノサイド(民族虐殺)だよ」
国を出た者、残った者 この時期、アイルランドの人口は800万人から500万人に減った。200万人が海外に難民として流出。アイリッシュ・ディアスポラ(アイルランド人世界離散)と呼ばれる。
職を求めて対岸のリバプールに渡ったアイルランド人の子孫がビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーだし、大西洋を渡った移民の子孫はJ・F・ケネディ、オバマ、バイデン大統領、トム・クルーズやブラッド・ピットやジョージ・クルーニー、自動車王ヘンリー・フォードと西部劇の巨匠ジョン・フォードだ。
アイルランドに残った人々は独立のために戦い続け、1916年には武装蜂起。英国軍相手に果敢なゲリラ戦を展開し、ついには独立を勝ち取った。
しかし独立してからも苦難の道が続いた。
貧しさだけでなく、カトリック教会と政治の癒着による保守的な法律が人々を苦しめた。同性愛や人工中絶は犯罪で、避妊も離婚も禁止された。そればかりか未婚の母や婚外子を妊娠した女性は罰として修道院に監禁され、洗濯工場で死ぬまで働かされた。その数は3万人以上。しかも生まれた子どもはアメリカなどに有料で里子に出された。つまり赤ん坊を売っていたのだ。
だから1970年代初めまで、アイルランドは道路もろくに舗装されてなかった。映画『ザ・コミットメンツ』の首都ダブリンは泥だらけの道を家畜が行き来する田舎の村のようだ。
そんなアイルランドがどうして世界で最も豊かな国になったのか? 以下次号!