週刊文春」編集部 2022/07/20

統一教会 vs.「週刊文春」 取材班はサタンと呼ばれ、信者が会社を包囲

 安倍元首相暗殺をめぐり、注目を集めている統一教会。実は週刊文春とは30年前から浅からぬ因縁があり、社屋をデモ隊に囲まれたことも。取材記者や元信者らの証言をもとに、この組織が抱え続ける問題について検証する。

桜田 淳子(さくらだ じゅんこ、1958年〈昭和33年〉4月14日 - )は、日本の元女優・歌手。サンミュージック所属(活動当時)。身長161cm。秋田県秋田市新屋表町出身。愛称は「ジュンペイ」[5][6]。3児の母。

1992(平成4)年8月25日に行われた統一教会の合同結婚式。当時、桜田淳子、34歳。

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「あなた方は宗教を弾圧して信仰の自由を奪う、最悪のサタンである!」

「人類のメシア(the Messiah | məsáɪə |.(⇨救世主, ⇨キリスト)として再臨された文(鮮明)先生とご家族を悪く言うな!」

 襷(タスキ)をかけた男女数十人が横並びに巨大な横断幕を掲げ、一人ずつ声を張り上げた。襷や幕には〈週刊文春が捏造報道〉〈抗議の断食決行中!!〉の文字が並ぶ。

 統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の信者たちが小社を取り囲んだのは、2011年9月のことだ。

 小誌は9月1日発売号で統一教会の特集記事を掲載。日本から統一教会本部のある韓国に約9年間で約4900億円が送金されていた事実や、文鮮明夫妻のラスベガスでのカジノ通いなどをリポートした。

デモをする統一教会信者.png

「敷地内に入らないでください!」

 10月17日には警備員の叫び声が。興奮した男性信者が小社北門(きたもん)のフェンスを蹴り、乗り越えようとしたところを取り押さえたのだ。デモの回数は37回。期間は9月5日から11月7日まで約2カ月に及んだ。

 小誌と統一教会の戦いの幕開けは今から30年前に遡る。すでに教団による霊感商法が社会問題化していた92年。教団の取材を続けていたジャーナリストの有田芳生(ありた よしふ)氏、前出の石井氏ら小誌取材班が、松井清人(まつい きよと)デスク(前文藝春秋社長)の下、84年ロス五輪代表で“新体操の女王”と呼ばれ、人気タレントだった山﨑浩子さん((やまさきひろこ、1960年1月3日 - 、当時32)の「合同結婚式」への参加をスクープしたのだ。

山崎浩子.png

「教祖に相手選びを委ねる(ゆだねる)合同結婚式は、内部で『祝福』と呼ばれ、『原罪から解放され、救済が実現する唯一の方法』と教えられています。日本人の場合、費用は『祝福献金』140万円と実費(じっぴ)。統一教会にとって最大かつ重要な集金イベントです」(石井氏)

 同年6月、小誌記事を受けて山﨑さんが参加を認める記者会見を開くと、かねてから信仰が噂されていた歌手の桜田淳子(当時34)も会見を開催。同じく合同結婚式への参加を表明した。

「統一教会は続いて、バドミントン元日本チャンピオンの徳田敦子さん(当時36)にも参加を発表させた。彼女たちを『祝福3女王』と呼び、広告塔にする戦略に出たのです」(同前)

 迎えた同年8月25日。ソウルオリンピックスタジアムで行われた合同結婚式には、日本のメディアが大挙して押しかけた。この合同結婚式に参加した男女信者は3万組に上る。

 教団との戦いの第2幕はその翌月から始まった。小誌は次の合同結婚式の目玉の一人として、タレントの飯星景子さん(いいぼし けいこ、1963年2月23日 - 、当時29)の名が上がっていることをスクープ。すると直後、実父で作家の飯干晃一氏((いいぼし こういち、1924年〈大正13年〉6月2日 - 1996年〈平成8年〉3月2日)から編集部に連絡が入る。

「『週刊文春』を舞台に統一教会と戦いたい。私を取材班に加えてほしい」

 元読売新聞大阪本社の社会部記者で、「仁義なき戦い」など組織暴力をテーマにした小説を発表してきた飯干氏は、教団に「宣戦布告」を行った。

 当時、飯干氏が小誌に寄稿した文章にはこうある。

取材班にも尾行(びこう)や監視が

〈娘が「統一教会の歩く広告塔」として利用されることを阻止しなければならない。もしも、彼女がPRに利用されることがあれば、他にも騙されたり被害に遭う人が出てくるからだ〉

 飯干氏は自ら張り込みを決行し、当時の統一教会会長代理を直撃取材。景子さんの居場所を聞き出した。さらに約1カ月半、教団の実態を調べ上げ、娘の洗脳を解き、同年10月「娘景子を取り戻した」と題する手記を小誌に掲載した。

 飯干氏は娘を奪還後も、「本当の戦いはこれからだ」と、統一教会に入信した子を持つ親たちの相談に乗り、時には信者の若者を説得。96年に71歳で他界するまで教団と対峙し続けた。

 小誌にとって最大の山場が訪れたのは翌93年のこと。山﨑さんの脱会を巡る攻防である。

 93年3月、山﨑さんと姉、叔父、叔母が脱会に向けた話し合いに入る。信者の脱会カウンセリングを行ってきた専門家や全国の牧師らが協力し、小誌取材班も伴走(ばんそう)を続けた。

 一方、山﨑さんが教団側と連絡を絶ったため、結婚相手のT氏は、記者会見を開いて“拉致監禁”を主張。統一教会は「山﨑浩子さん救出のための特別献金」を信者に呼びかけた。

 山﨑さんの説得に関わっている関係者に加え、有田氏や小誌取材班に尾行が付き始めたのもこの頃だ。

 小誌は93年4月1日発売号で、山﨑さんの直筆メッセージを掲載。

〈姉とおじ、おばとで私の一生の問題について話し合いを続けているところです。もうしばらくの間、静かに考える時間を下さい〉

 この直後から、関係者への尾行や監視はさらに激しさを増していく。山﨑さんの叔父が公衆電話で連絡をしている隙にバッグが盗まれる事件も発生。叔父の家からは盗聴器も発見された。

 脱会の決心を固めた山﨑さんが取材班と対面したのは、同年4月7日。山﨑さんは有田氏にこう言って穏やかな笑みを浮かべた。

「初めまして。有田さんのこと、ずっとサタンだと思っていました」

 山﨑さんはそれから、原稿用紙40枚に及ぶ手記(しゅき)を4日間で書き上げる。その全文は、小誌4月21日発売号で掲載された。

〈いったい私は何を信じてきたというのだろう。神を証(あかし)できる喜びを味わいながら、生きてきたというのに、サタンの手先となって働いてしまったというのか〉

 有田氏が振り返る。

「入信前、山﨑さんは合同結婚式を知って『こんなところに入るのは信じられない』と思っていたそうです。ところが、統一教会のダミー(dummy)団体を通じ、父が亡くなった時に支えられ、正体を知った後も『こんなに優しい人たちがいるんだ』と入信してしまった。統一教会のマインドコントロールの厄介(やっかい)さは、教義を教え込まれる前に、人間関係から固められるところにあります」