《総力取材》統一教会の闇 「週刊文春」編集部 2022/07/27
内部告発者“第一号”が「私はメッタ刺しにされた」 文鮮明を告発直前、坊主頭の男に刃物で…
「あの日、私はいつも通り自宅マンションに帰ろうとしたのですが――」
そう重い口を開くのは、「世界日報」の元編集局長で、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)本部の広報局長も務めたA氏だ。
民放幹部が言う。
「統一教会は苛烈な抗議で知られており、大手メディアは教団の報道に及び腰になっていました」
実際、2011年に小誌が教団の資金に関する問題などを報じると、約2カ月にわたって信者たちのデモが小社を取り囲んだ。他方で統一教会の報道を巡っては、不可解な出来事も相次いできた。1990年代前半には、教団の問題を追及していたジャーナリストの有田芳生(ありた よしふ、1952年〈昭和27年〉2月20日 - )氏や小誌取材班に尾行が付いたこともある。
中でも、古くから統一教会を取材する人たちの間で語り継がれてきたのが、今から40年近く前に起きた“凄惨な事件”だ。
当時、積極的な勧誘活動(かんゆうかつどう)で、日本でも急速に勢力を拡大していた統一教会。30代前半だったA氏が世界日報に入社したのは、1980年のことだった。
「世界日報は75年創刊の統一教会の機関紙です。ただ、当時は教団と関わりの深い学者らの寄稿ばかりが掲載されており、有料購読部数も約7000部。毎月6000万円の赤字を教団側から補填(ほてん)してもらっていました」(世界日報関係者)
A氏はその後まもなく、編集局長に就任。世界日報の“一般紙化”を図るべく改革を推し進めた。
「82年に持ち上がった教科書検定問題やKGBの日本人協力者を巡る調査報道などに力を入れたほか、新聞を教団の布教・宣伝に利用しない方針を打ち出しました。結果、購読部数は3万5000部まで増加し、統一教会からの金銭的な援助も停止したのです」(同前)
だが、その最中の83年10月1日、最初の事件が起こる。国際勝共連合の梶栗玄太郎理事長((かじくり げんたろう、1937年〈昭和12年〉 - 2012年〈平成24年〉12月26日))(当時)率いる約100人の男たちが、渋谷にあった世界日報の本社を襲撃したのだ。当時の報道によれば、梶栗氏らは役員を監禁し、約10名の社員を負傷(ふしょう)させた上、A氏の編集局長解任を発表した。
当のA氏が振り返る。
「暴漢は編集局を目指していましたが、私はたまたま別フロアの営業局にいました。記者の一人が渋谷署に電話し、飛んできた警官に保護されて事なきを得た。私の紙面改革が、教会幹部の目には世界日報の乗っ取りと映ったのでしょう」
この事件を報じた朝日新聞によれば、統一教会の内部文書には、創始者・文鮮明氏がA氏らの動きを耳にして激怒していたと綴られていたという。
「実際、事件直後、A氏は統一教会から除名されます。以降は、自ら情報誌を創刊して統一教会に関する情報を発信していました」(前出・世界日報関係者)
「あと少しで…」
世界日報の襲撃事件から、霊感商法やダミー団体の実態、さらには文鮮明氏を名指しして、米国で脱税による有罪判決を受けたことなどを詳述。統一教会の活動について〈「文鮮明氏」の野望を実現することを目的とした方便〉と断じ、〈統一教会、勝共連合を腹中の毒として排泄するべきである〉などと綴っている。
「当時、主要媒体で統一教会の闇に斬り込む報道はほぼ無かった。いわばA氏は内部告発者“第一号”だったと思います。締め切りの関係上、手記は5月末には校了していました」(同前)
ところが――。
それは、この告発手記が発売される八日前、6月2日夜のことだった。
A氏が家路に向かうと、自宅マンションの入り口付近にカーキ色のヤッケ(ドイツ•Jacke)を着て、白っぽいズボンをはいた坊主頭の男が立っていた。
A氏が冒頭の言葉に続けて振り返る。
「その男がいきなり襲いかかってきたのです。頭と背中、腕を刃物(はもの)で刺されました……」
命からがら、マンション3階にある部屋までたどり着いたという。血まみれになったA氏を見た妻は、すぐさま警察に通報。病院に運ばれ、そのまま1カ月近く入院した。
「背中の傷は心臓から5センチしかずれておらず、胸の中が血でいっぱいになりました。医師からは『あと少しずれて、動脈が傷ついていれば死んでいた』と言われた。その後、1年間は包帯を巻いての通院を余儀なくされました」
警察も傷害事件として捜査を行ったものの、7年後の91年、公訴時効を迎えた。一体、誰がA氏をメッタ刺し(滅多刺し 【めったざし】 (n) stabbing repeatedly)にしたのか。
「『文藝春秋』の発売前でしたが、手記の掲載がどこからか漏れたのでしょう。犯人の顔に見覚えはなかったものの、襲われた時には韓国の空手(からて)の使い手だと直感しました。犯行後、犯人は空港に向かって韓国に逃げたと考えています。ただ、少なくとも私は、教団以外から恨みを買った覚えはありません」
事件直後に引っ越しを余儀なくされ、子供たちにも事件について話したことがないというA氏。あれから38年が経ったが、今も左肩(ひだりかた)から左肘(ひだりひじ)にかけて縫い傷が残っている。
統一教会は事件について以下のように回答した。
「(統一協会の信者が犯行に関与した)事実は一切ありません」
最後にA氏が語る。
「教団内部には当時から誰もブレーキをかける人がいません。組織を守るという宗教的信念が何よりも優先される。それが統一教会の本質なのです」