「週刊文春」編集部 2022/08/31
【検証】朝日新聞と統一教会
朝日新聞の統一教会報道に厳しい声が広がっている。8月3日には、元朝日新聞紙面審議委員で思想家の内田樹(うちだ たつる)氏が、〈今回の統一教会報道の弱腰(よわごし)が祟って(たたって)400万部割れも時間の問題でしょう。〉とツイートし、朝日新聞OBも同様の声をあげた。さらに批判の意思表示として〈#さよなら朝日新聞〉というハッシュタグ(Hash Tag)までが拡散した。その朝日新聞と統一教会の関係を調べてみると……。
▶赤報隊事件(せきほうたい)“統一教会批判は皆殺し”脅迫状
▶上層部“手打ち”に記者は激怒した - 手打ちにする strike a bargain.
今から35年前の1987年5月3日夜、日本を震撼させる事件が起こった。
「兵庫県西宮市(にしのみやし)の朝日新聞阪神支局に男が侵入し、記者に向かって無言(むごん)で散弾銃(さんだんじゅう)を発砲(はっぽう)。犬飼兵衛(いぬかい ひょうえ)記者は右手(みぎて)の小指(こゆび)と薬指(くすりゆび)を失う重傷(じゅうしょう)を負い、小尻知博(こじり ともひろ)記者(当時29)は翌日未明に亡くなった」(社会部記者)
世にいう「赤報隊事件」である。襲撃を受けた朝日新聞は特別取材班を組織する。当時その一員だったノンフィクション作家の辰濃哲郎氏(たつの てつろう、1957年8月17日- 、65)が振り返る。
「『明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように』という、暴力にひるまず報道し続けようという言葉をデスクが揮毫(きごう)して飾りました」
約30名の記者たちが、一堂に会した最初の会合。「統一教会とその関連団体を取材するべきだ」という意見が出たと話すのは、事件を振り返った『記者襲撃』(岩波書店)の著者で、大宅賞ジャーナリストの樋田毅氏( ひだ つよし、1952年- 、70)だ。事件は18年にNHKスペシャル「未解決事件」で扱われ取材班の樋田氏を草彅剛(くさぎ つよし)が、辰濃(たつの)氏を上地雄輔(かみじ ゆうすけ、1979年〈昭和54年〉4月18日 - )がそれぞれ演じた。その樋田氏が語る。
脅迫状に薬莢が同封されていた
「当時、発行していた雑誌『朝日ジャーナル』では、原理運動や霊感商法を批判するキャンペーンを行っていましたし、新聞紙面でも教団批判などを続けています。1986年から国際勝共連合(こくさいしょうきょうれんごう、英: International Federation for Victory over Communism)が、東京本社前で朝日の報道姿勢を批判する演説を行っていました。87年2月には、『サタン皆殺しだ』という脅迫状が、社に届いていた」
「サタン」とは統一教会が“敵”と認定したものをさし示す言葉として使われる。
襲撃事件から2日後、東京本社に新たな脅迫状が届いた。
- 事件2日後に届いた脅迫状
- 〈とういつきょうかいのわるくちをいうやつは みなごろしだ〉
封筒(ふうとう)の中には、脅迫状とともに、散弾銃の使用済み薬莢(やっきょう)が2つ入っていた。
「脅迫状が送られた時点で、襲撃の際に使われた散弾の種類はまだ公表されていませんでしたが、同種のものでした」(樋田氏)
統一教会側は当時、朝日の取材に対し、「ひどい濡れ衣(ぬれぎぬ、ぬれごろも)」と答えている。また、教団の機関紙『世界日報(せかいにっぽう)』では、同年10月から朝日批判記事の連載が始まった。
樋田氏ら取材班は、右翼団体(うよくだんたい)と並んで統一教会の取材を進めることになった。
「当時、統一教会は全国に26店ものエアガンを販売する銃砲店を構えていた。教団の信者で、事件までに射撃選手として国体に出場したこともある人物が5人いたことが分かっていました。元選手が店長を務めたこともある和歌山の店舗に行くと、信者と思しき従業員が、空気銃を渡して丁寧に撃ち方を教えてくれた。『もしやこの男が』と思い、冷や汗が流れました」(同前)
同行した後輩記者の辰濃氏が続ける。
「我々は上から『記事は書かなくていい。犯人(はんいん)を捕まえてこい(Go get the culprit)』と言われていました。取材を重ねる中で、僕ら朝日新聞の記者は信者から強く敵視されているのだということも、身をもって感じていた」
樋田氏が、国際勝共連合の取材も進めると、連合内に秘密軍事部隊があったとする証言にたどり着いた。
「部隊に所属した複数の元信者(もとしんじゃ)などによれば、国内で尾行、偵察の訓練や元自衛官の信者を教官とした射撃訓練が行われていたそうです。後に再取材をしたところ、証言を翻されて(ひるがえされて)しまった。しかし教団元幹部によれば、文鮮明らの身辺警護(しんぺんけいご)をするグループは実在しており、その関連で訓練が行われていた可能性もあると考えています」(樋田氏)
取材が続く中、ある情報がもたらされ樋田氏らを震撼させることになる。
88年6月。東京本社の社会部遊軍キャップから、取材班のもとに、「取り扱い注意」と書かれた社会部長への聞き取りメモが持ち込まれた。樋田氏の著書『記者襲撃』には、その内容について詳しく記されている。
メモにはこうあったという。世界日報からの申し出で、同社の社長、編集局長、論説委員らと、朝日新聞の広報役員、編集局次長が2月(もしくは3月)と5月の計2回宴席を設けた。その席で、世界日報側から『もう手打ちをしようじゃないですか』と持ち掛けられた。(それに対して朝日新聞側は)『そうは言っても……』、『霊感商法なんか、やめたらどうか。儲からんでしょう』と答えた。メモを作ったキャップに対し、社会部長は社として手打ちをしたという事実はないと断言した。
この記述について問うと、樋田氏は「十分に裏付けを取った内容です」と話す。
最初の会食の後の4月、世界日報の朝日批判記事は打ち止めになった。「教団の取材を止めろとは言われなかった」としつつも樋田氏は言う。
「本にも記述したように、非常に憤りました。我々が今まさに戦っている相手と手打ちをしようという話があがっていたということ自体が、俄かに信じがたかった。紙面を扱う編集局次長が同席していたというのは、報道機関として許される行為ではなかったと思います」
共に取材を続けていた辰濃氏も振り返る。
「樋田さんが怒っていたことは、よく覚えていますよ。僕もこれだけ苦労して取材をしているのに、なぜなんだ! と思いました。統一教会は取材対象であっただけに、忸怩たる思い(じくじたる、 deeply ashamed)でした」
さらに後年、樋田氏は朝日新聞の編集委員の1人が、教団側から金銭を受け取って情報を流していたという元信者の証言も得た。
「(教団側は)5万円から10万円を渡して、被害者父母の会の情報の提供を受け、記事を抑えてもらったというものでした。残念ながら取材を試みた段階では、当人(とうにん)は亡くなっていて真偽は不明です」
朝日新聞は会食及び金銭授受(じゅじゅ)を「そのような事実は確認できません」(広報部)と回答した。
2003年の時効成立後も取材をし続けた樋田氏は振り返る。
「兵庫県警が作成した統一教会・国際勝共連合に関する捜査報告書はB4判で計58ページに上ります。重要な捜査対象であったものの特定の人物を事情聴取するところまではいかなかった」
2人のOBは、今の朝日新聞の統一教会報道をどのように見ているのか。
「統一教会を取材するには、人脈づくりなど長年の蓄積が必要です。一朝一夕(いっちょういっせき)で追及できるものではないですから」 (樋田氏)
辰濃氏は「報道空白の30年」としてこう指摘する。
「統一教会は反社会性を帯びた団体である一方、信教の自由に守られた存在であるため、脇を固めた上で取材しなければならない。この30年間、教団の問題が大きく報じられなかったのは、そうした理由だったと思います。この間に周りの様子を見てから動くという意識がどの社にも芽生えて(めばえて)しまったのかもしれません」
統一教会と最前線で向き合った2人。彼らのもとを訪ねる後輩記者は、今のところいないという。