編集部コラム 第118回  「週刊文春」編集長 2023/07/15

「抜かれた!」初体験

 はじめまして。

 7月6日より正式に週刊文春の編集長になりました、竹田聖(たけだ さとし)と申します。

 これまでのように、「週刊文春」編集部の記事作成の舞台裏や、奮闘する記者の素顔(すがお)を皆さまにお伝えしていきたいところですが、まずは簡単な自己紹介から。

 あ、ちなみに名前は「さとし」と読みます。弊社には「タケダ」という苗字の人間が3人おりまして、入社以来、下の名前で呼ばれるケース多数。そもそも弊社には「社長」などと肩書で呼ぶ文化がまったくなく、社長に対しても「●●さん」。私のことを「編集長」などと呼ぶ人もいません。至ってフランクな社風なのです。

 私は2001年4月に文藝春秋に入社し、現在45歳。前任の加藤の4期後輩です。入社後すぐにスポーツ雑誌の「ナンバー」編集部に所属。約3年、野球やサッカーの取材に走り回り、2002年のサッカー日韓W杯では韓国ラウンドに一番下っ端の、カメラマンの荷物持ち兼電送係(当時はハーフタイムにSDカードを受け取り、1枚の写真をメールで日本に送るのに10分~20分ほどかかったのです!)として帯同(たい‐どう、同行)。2004年春より「週刊文春」編集部に配属となりました。

 その直前の3月に、世に言う「田中真紀子長女記事出版差し止め(さしとめ)事件」がおき、混乱と喧騒の直後に初めて「週刊文春」編集部に足を踏み入れたのを覚えています。その後、月刊「文藝春秋」に2度異動し、計5年を過ごしましたが、それ以外は計15年ほど、「週刊文春」を記者、デスクとして作り続けていたところ、今般(こんぱん、このたび。こんど。今回)の人事と相成った次第です。

 世間の皆さまにその人事が露見(ろけん)したのは、思わぬタイミングでのことでした。

〈週刊文春編集長、5年ぶり交代へ 加藤氏の後任に竹田氏〉

 こんな見出しの記事が共同通信で配信されたのは、6月7日の水曜日、午後5時ごろ。正式な内示は6月中旬で、社内的にもまだ秘密事項(ひみつじこう)だったのを、まんまと(うまく。首尾よく)他社の記者に「抜かれた!」のです。これまで政治家の閣僚人事や、霞が関の次官人事などを取材してきましたが、自分の人事がニュースになるとは初体験です。記憶する限り、「週刊文春」の編集長人事が共同通信で配信されたことなどありません。

 さらに間抜けなことに、「抜かれた!」というその瞬間、実は私は映画館のスクリーンの前で、静かに感動していたのです。是枝裕和(これえだ ひろかず、1962年6月6日[2] - )監督の「怪物」。火曜日夜に校了を終え、週刊文春のデスクにとって毎週「水曜日」は一息つける日。前から見たかった作品を見に映画館に足を運びました。

 しかし、この仕事をしていると、2時間以上、携帯を完全に切っておく勇気はありません。いかに非番とはいえ、急な事件や事故への対応もあれば、抗議や訴状(そじょう)が届くこともあります。私が映画を見る際の決め事は、携帯をマナーモードにして着信時に1秒バイブになるように設定し、ポケットにイン。出入り口に近い座席を確保。いざ「ブルッ」と鳴ったら、即座に外に出てコールバック、というのが鉄則です。

 ところが、なぜかその日ばかりは、カバンに携帯を入れたまま、「怪物(かいぶつ)」の2人の少年の見事な演技と、亡くなったばかりの坂本龍一氏の音楽に酔い痴れ(よいしれ)、すっかり没頭(ぼっとう)してしまっていたのです。5時半過ぎに映画館を出てふと見ると、携帯には会社からの着信がいくつも並び(どうやら共同通信から当て取材が入り、内示前なのでお答えできないと突っぱねてくれていたようです)、他にも友人、知人からの着信やメールやLINEが並んでいました。

 普段はよそに先駆けてスクープすることが仕事のはずが、他社に自分の人事をまんまと抜かれた挙句、そのことにすら気付かず映画に没頭、対応も後手後手に、という大失態……。就任前から何とも締まらない展開となりました。

 ことほど左様(さよう)に、やや間の抜けた人間ではありますが、編集長を務めるにあたっては何の不安もありません。なぜなら、ただでさえ精鋭揃いの記者&編集者軍団に、さらに強力な仲間が10人も加わったからです。次回はその内幕を――。