土屋賢二 ツチヤの口車 第1326回

35年前の自分へ

 お〜い! 賢二! 79歳のお前だよ。こんなに長生きすることに驚いているだろうが、ここまで生きるのは、努力なしにできる数少ないことの一つだ(100歳の人に聞いても、「何もしていない」としか言わないだろう?)。なお、同じぐらい努力なしにできることは、死ぬことだ。

 自分が歳をとるとは思ってもいないから関心がないだろうが、歳をとっても気持ちは若いよ。義務や仕事から逃げたり、何でも先延ばしにする気持ちは若いときと変わらず旺盛(おうせい)だ。

 問題は身体だ。高さ30センチの柵を飛び越そうとして失敗する。懸垂(けんすい)や腕立て伏せ(うでたてふせ)は1回もできない。真っ平らな地面で転ぶ。こうなった原因は、若いときからの鍛え方にある。若いときから、思い出したように腕立て伏せをしたり、トレーニングジムに入って3日でやめるなど、中途半端なやり方をしたが、いまからでも遅くない。歳をとるとこんな結果になるのだ。腕立て伏せもジムもやめろ。

 いまもお前はよく転ぶ。たぶん足腰が弱いか、落ち着きがないか、三半規管(semicircular canals (of the inner ear)がイカれているか、地球に適応できていないかだ。

 この先、何度も転ぶだろうが、大した怪我をするほどではない。だが雨の日の駅には気をつけろ。転んで柱(ちゅう)に激突して顔が鮮やかな色になるぞ。しかもそれが時間とともに色々な色に変化するから、カメレオンの遺伝子が入っているのかと思うだろう。

 いま研究書を大量に買っているよな? 給料の半分を専門書につぎ込んでいる。古代ギリシア語の辞書、文法書、ホメロスのギリシア語辞典(これは一度も使わないぞ)などの洋書だ。これらは一冊一冊が高価だ。しかも洋書店の販売レートが1ドル=270円以上だからよけい高価になる。

 それでも妻が買うのを許しているのはなぜか考えたか? わたしの恩師から教わった通り、「本には相続税がかからない」と妻を説得したからだ。妻はやがて本を相続して売り払うのを楽しみにしているのだ。だが後年、分かったが、本にも相続税はかかるぞ。

 その上、最近ではペーパーバックが増えて本の価格が下がり、しかも直輸入で買うから昔の2割で買える本もある。だから古本屋に売ろうにも専門書は二束三文だ。大学の図書館に寄付しようにも、登録する人員も保存スペースも不足しているから引き取らない。楽しみにしていた妻には気の毒だが、結局捨てるしかない。捨てるのがイヤならヤギを飼え。

 もっと大きい無駄をしているぞ。いま寝食を忘れて哲学を研究しているが、数年後にその努力が全部無駄だったと分かるのだ。そう言っても、頑固なお前のことだ。納得するまでやめないだろう。第一、哲学以外できることが何もない。だが研究の方向を転換すると2年後に初めて深い納得が得られるから悲観するな。だが、それを本にしても売れないから楽観するな。

 それから家計が苦しいのに宝くじを買うのはやめろ。1回も当たらないから。「夢を買う」と言うが、夢なんか買うな。ただで見れるんだから。最近ホラーばかりだが。

 宝くじを買うのは甘い汁を吸いたいからだ。それほどふだん苦汁をなめているからだ。一度でも甘い汁を吸いたくなるのも無理はない。事実、いまもやめられないのだ。

 宝くじにかぎらず、この先も後悔は何十万回もするぞ。お前は後悔しても同じ誤りを犯すから、後悔するだけ無駄だ。だが謝罪の姿勢を見せるため、心から後悔するふりは必要だ。練習を怠るな。

 忠告しても改めるようなお前ではないから今日はこれぐらいにしておいてやる。

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