ツチヤの口車 第1363回 土屋 賢二 2024/10/26
熱が出た
わたしの文章は簡単に書いているように思われている。テレビでも見ながら片手にカップ麺をもってチャッチャッと書いていると思っている人が多いのではなかろうか。というのも、そうとしか思えないぐらい文章が幼稚(ようち)だからだ。
しかし文才がないからこそ、大作家(だいさっか)の何百倍も苦しんで書いているのだ。その事実をもっと考慮してもいいのではないか。かりに3歳児が書いたとか、サルがキーボードに打ち込んだ文章なら、驚異の目で迎えられ、はるかに売れるはずだ。わたしが目から鼻に抜ける貴公子のような風貌だから気づきにくいかもしれないが、わたしの文才は幼児並みなのだ。それを考慮せず、わたしの本を買わない人が多すぎる。実に世界の99.99パーセントの人が買おうとしないのだ。
中には、たんに「名文ではない」「洞察がない」「深みがない」という、言いがかりとも言える理由をつけて買わない人がいる。こういう人は深みがあろうが含蓄(がんちく)に富む文章であろうが、実際には買おうとしない。その証拠にそういう人は、深みと洞察に富む哲学書や聖書も、老子や荘子や仏典も読まず、買おうとしない。実際には本に深みも洞察も求めていないくせに、買わない理由にしているのだ。「この料理にはスパイスがきいていないから食べる気がしない」とスパイス嫌いの人が酷評して食べようとしないのと同じだ。
わたしの困難は文才だけではない。運も悪い。先日から37度前後の熱が出て何日も下がらない。わたしの体調に関係なく原稿の締め切りは着実かつ無慈悲に到来する。そんな中で原稿を書いているのだ。
たかが微熱ぐらい、とあなどってはいけない。熱が何日も下がらず、身体はだるく、鼻は詰まり、喉はイガイガ、財布はカラッポ、頭はぼんやり、目はかすみ、米は値上がりし、腕立て伏せは10回もできない。2、3日高熱が出る方がマシだ。微熱より悪いのは、冷たい身体になることぐらいだ。
微熱でもコロナの可能性がある。だるい身体に鞭打ってクリニックに行って診てもらう。コロナの検査をし、採血し、レントゲンも撮ったが、ほぼ問題はない。こうやって一つずつ疑いを消していく。そのたびに仮病の疑いが浮かび上がってくる。と思うが、だれも口に出して指摘しない。第一、仮病を使う理由がない。
締め切り日、微熱で頭は朦朧としている。少しでも頭をスッキリさせるために栄養ドリンクを飲むと、少し身体がラクになり、おかげで熟睡できた(熱があると熟睡できないのだ)。数時間眠って目が覚めると、身体は元のだるい状態に戻っていた。後悔した。栄養ドリンクの有効成分を睡眠のために浪費してしまった。
苦しい中、ぼんやりした頭で何を書くかを考える。嘘は書けない。わたしは本当のことも上手に書けない上に、上手に嘘をつけない性格だ。それに倫理感が強い。エッセイである以上、面白おかしい出来事が何一つとして起きなくても、嘘を書くべきではないと思っている。嘘を書いてもいいならもっと簡単に書ける。
「チリひとつない部屋で、ツチヤは三千枚の原稿を書き終えると、静かにペンを置いた。今週二本目の原稿を仕上げたのだが、端正な顔には疲れの様子も見えない。目の前の大福を手に取った。この日五個目である。それをほおばったときだった。玄関からバールのような物でドアのような物をこじ開ける音のようなものが聞こえ、わたしはとっさに襲撃のようなものに備えて、机のような物の上のボールペンのような物を手のようなものにもった」
ここまで苦境を訴えてきたが、熱は下がらない。微熱のこもった文章になった。