ツチヤの口車 第1343回 土屋 賢二 2024/06/01
だれもが太っ腹(ふとってはら)になるとき
歳をとると色々なことができなくなる。できることと言えばわずかに、シルバーシートに座る、老眼鏡をかけて本を読む、乳幼児(にゅようじ)健診を無視する、後期高齢者保険料を払う資格を獲得するなど、こうしてみると意外に多い。
他方、できなくなることは数えきれない。シルバーシートに座る、老眼鏡をかけて本を読む……、まで数え上げたところで、何を数えていたのかわからなくなる。
そんな境遇(きょうぐ)の高齢者をどう励ませばいいのか。高齢者は「前向きになれ」と言われても、将来にはいまより悪いことしか待ち受けていない。後ろ向きに過去にひたる方が安心だ。どんな過去でもいまよりはマシだ。何より、過去は好きなように作り変えることができる。
「楽しく生きろ」と言われても、楽しいことが何一つない。貧乏な人に「贅沢しろ」と言うに等しい。
実を言うと、どんな励ましも不要である。歳をとると自然に気にしなくなるのだ。太っ腹になると言ってもいい。歳をとるにつれて、「こうなったら最悪だ」と思っていたことが次から次へと容赦なく襲ってくるため、いちいち気にする余裕がなくなるのだ。
ちょうど、本を一ミリの狂いもなく揃えて本棚に並べ、部屋を塵一つないほど掃除するきれい好きの人でも、大地震で本棚も天井も崩れると、細かいことを気にしていられなくなるのに似ている。神経質だった人が太っ腹になると言い換えてもいい。地震がなければ、解体屋に室内を破壊してもらえばいい。
若いころは少しでも視力が落ちるとショックだったが、歳をとると気にならなくなる。現にわたしは1年前から左目がかすみ、ほとんど右目だけで見ている。ドライアイだと思うが、眼科医には診てもらっていない。たぶんスマホの見すぎが原因だろうが、スマホをやめるつもりはない。知り合いの内科医から「ドライアイは治らない」と言われて、ホッとしたほどだ。
スマホを見ても得るものがない上に、十分な睡眠や読書の時間が奪われるなど弊害が大きい。それでもスマホをやめようとしないのは、視力にも睡眠にもこだわらないほど太っ腹になったからとしか考えられない。
薬の副作用も気にしない。頭痛薬の副作用が頭痛だったり、睡眠導入剤の副作用が悪夢だったりするが、主作用さえあれば多少の副作用は当たり前だと思えるようになる。身体の不調が大きいと、副作用にこだわっていられなくなるのだ。
だいたい何にでも副作用はある。食べないと死ぬが、食べれば肥満や糖尿病のリスクという副作用がある。長生きには老化という副作用があり、生存には死という副作用がある。一般に、何事も成し遂げようと思えば、副作用として犠牲を伴う。楽器でもスポーツでも上達するためには、経済的にも時間的にも家庭的にも犠牲を払う。多大の犠牲を払っても、十中八、九上達しない。それを何度も繰り返すと、失敗や無駄骨を苦にしない太っ腹の心境になる。
身体のあちこちが思うように動かなくなることも増えるが、しょっちゅうだといちいち気にしていられなくなる。すべての指がヘバーデン結節で痛み、ピアノが弾けないが、気にしない(どうせ上手に弾けないのだ)。犬やネコを見よ。指を動かせず、ピアノどころか箸もスプーンも使えないが、そんなことを気にもせず、太っ腹に生きているではないか。昔、薬指と小指が思うように動かなくてピアノが弾けないことに悩んでいたのが嘘のようだ。
小心者のわたしもいまや太っ腹だ。ただ、さっき財布を調べたら1000円足りない。どこで1000円を落としたのか気になる。