夜明けのハントレス 第4回 河﨑 秋子 2024/09/26
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家で狩猟雑誌を見つけて手に取る。恵まれた環境で育ち、趣味でトレイルランニングを続けつつもなにか物足りなさを感じていたマチは、初めて見る狩猟の世界に惹きつけられる。夕食中、母親に狩猟の話をしてみると、大学の近くに銃砲店があるはずだという。マチはさっそくスマホで店の場所を確認する。
札幌の銃砲店を調べた翌日、マチは真面目に午前の講義を受けた。寝坊(ねぼう)で一限目をさぼった友人えみりの分も、きっちりとノートを取る。二限目、えみりが眠そうな目をこすりながら顔を出すと、その隣で真剣に教授の声に耳を傾けた。
一限目; 1限目 【いちげんめ】 (n) first period (e.g. first class in school day)
そして昼休みに、講堂前のベンチで弁当の包みを開けると、ようやく肩の力が抜けた。ふう、と息までもが一緒に吐き出される。
「おつかれ」
えみりは大きなメロンパン(菠蘿麺包)にかぶりつきながら言った。
「おつかれ、はあなたもでしょ。昨日はバイト遅番(おそばん)?」
「んー、代打(だいだ)で急遽(きゅうきょ)。ノートありがとね」
マチは卵焼きを飲み込み(呑みこむ;)、「おたがいさま」とえみりの肩を叩いた。
「二限目、ずいぶん真面目に受けてたじゃん。別にマチの好きな分野でもないのに」
「好き嫌いなくいつも真面目ですけど私は」
普段通り授業を受けていたつもりだったマチは憤慨した。そうじゃなくて、と言いたげにえみりはマチに視線をよこしながら野菜ジュースを一口飲む(ひとくちのむ)。
「マチは何かでテンション上がるとさ、生活全体にバキバキ張りが出るタイプでしょ。なんか、今そんなオーラ出てる。なんかあった?」 鋭い。眠気を残したけだるげな声での指摘は、マチ自身も意識していない本質を射ていた。「言われてみればそうかも」と大人しく頷く。
「なに、他に好きな人できた?」
「あー、そっちは違うなー」
恋人との熱がピークを過ぎていると察知しているが故の推測を、笑って否定する。
「恋愛関係なく、なんか面白そうだな、って思ってることがあって。でもまだ自分でもわかんない期だから、少し整理がついたらえみりに相談するかも」
「そっか」
マチの言葉を選んだ答えに、えみりはあっけなく頷いた。しかし、すぐに真顔になって人差し指で肩を強めにつついてくる。
「やばいのには気をつけなね。学生狙ったマルチとか、タチ悪いのあるから」
「うん、わかった」
真剣に心配してくれる友人に、マチも真面目に頷いた。どんなことにおいても落とし穴というものはある。どれだけ気をつけていても、だ。自戒しながら、もう一度頷く。
その時、二人のスマホから同時にメールの着信音が響いた。
「あれっ、午後の芸術論、休講だって」
「うそ、私あれ好きなのにー」
画面には、公共交通機関の事故の影響で講師が急遽来られなくなった旨(むね)が表示されている。教養講義のなかでも気に入っていた授業が休みになり、えみりは眉間(みけん)に皺をよせていた。が、致し方ない。
「マチは四限とってるんだよね。空いた時間、どうする?」
「私、今月の部費払いに行かないとかな」
マチはスケジュール帳を開き、『部費期日』という文字を見て眉間(みけん)に皺を寄せた。えみりも「あー、私もだ」と嘆いた。
二人は旅行自由研究会というサークルに所属している。基本的には楽しみのためのサークルで、半年に一度の道内旅行と年に一度の国内旅行の他は、部会と称した飲み会を目的としたような、よくある文化系団体だ。
入学後、友人になったばかりのえみりに誘われるままマチも入部し、ごく気軽に旅行や飲み会に参加している。事件は先月の飲み会で起こった。
サークル行きつけの居酒屋で、マチは一つ上の男子学生にしつこく言い寄られた。正確には、「岸谷さん彼氏いるの?」「昔からもてたでしょ」「どういう男が好きなの」と、やたら粘着(ねんちゃく)されたのだ。相手のねちっこい態度からすると下心(したごころ)があったのは明らかなのだが、言った内容のみを顧みると「単に質問をしただけ」となる。
ねちっこい; ねちこい (adj-i) persistent; obstinate; stubborn; pigheaded
下心 【したごころ】 (n) (1) secret intention; ulterior motive; (n) (2) kanji "heart" radical at bottom (1) 彼はあの女性に下心を抱いている。 He has designs on that girl.
要するに、男は自分が手ひどく拒否されない安全圏から所謂ワンチャン狙っていたわけだ。
しゃらくさい 《洒落臭い》 (adj-i) (uk) impertinent; impudent; cheeky
しゃらくさい。マチはこういった扱いを受けるのは初めてではなかったが、卑屈なやり方にいい加減腹が立ち、つい「ここのOBと今付き合ってるんで」と浩太のことを正直に告げてしまった。
あまりに堂々と答えすぎてしまったせいか、その後サークル内で「やっぱり男いた」「先輩にホイホイされて」「これだから見た目いい女は」などと、汚い本音と中傷が囁かれているのだ。先月、部費を納めようと訪れた部室から漏れる声を聞いてしまって以来、マチはサークルからすっかり足が遠のいていた。
「私もまだだから、預かって行こうか? 無理して行くことないよ。ていうか、ここまでされてサークル入ってる意味なくない?」
えみりがまっすぐマチを向いて言う。確かに、こちらは一ミリも悪くないのに囁かれている悪口と、別に旅行サークルに拘る(かかわる)理由がないことを思えば、やめた方がすっきりするだろうと考えてはいた。
しかしマチは首を横に振った。
「別にやめたっていいんだけどさ。こっちが何にも悪くないのに即退場したら、なんかかえって腹立つじゃない」
「それはほんとそう」
間髪入れず(かんはついれず)同意してくれるえみりが心強かった。嫌な人間関係にぶち当たったのはマチにとってこれが初めてではない。陸上をやっていた頃、先輩後輩同級生からやっかみ(jealousy )や嫌がらせ(いやがらせ)を受けても競技を諦めなかったことを考えれば、大学生が幼稚な内容で人を貶める(おとしめる)ことなど大したことでもない。
「だから、素知らぬ(そしらぬ)顔して旅行行って、あの先輩方が調子に乗ったことさえ忘れた頃にサクッとやめようかなって」
「それがいいかも。じゃ、私もその時は一緒にやめよっと。そしたら女二人旅しようぜ」
えみりはそう言うと野菜ジュースをズゴゴゴと音を出して飲み干し、空になったパックを握り潰した。
「ありがと。ごめんね」
「なんも。あんた別に悪くないじゃん」
うん、と礼と謝罪を言う代わりに、マチは弁当箱とは別のタッパーに入れたカットフルーツをえみりに薦めた。えみりは「うまっ」と言いながらパイン(pineapple)を摘む(つまむ)。
「つまんないサークルのことなんか忘れてさ。やりたいことやんなよ。自分でもわかんない期、楽しいしね」
「うん、たぶん」
自分でもわかんない期(き)。どう転ぶのかは分からないが、楽しいのは確かだ。えみりに頷きながら、マチはグレープフルーツを口に運んだ。新しい世界に踏み出すには、栄養をとっておかなければならない。爽やかな酸味が口の中に広がった。
マチはえみりと二人で堂々と部費を払いに行き、例の先輩が茶を淹れようとするのを遮ってさっさと部室棟から出た。休講の時間をバイトまでの仮眠に充てたいのでアパートに帰るというえみりに別れを告げ、マチは四限までぽっかり空いた時間をどう潰そうか考える。
いつもならば図書館にでも行くところだが、ふと思いたってスマホの地図アプリを開いた。
『堀井銃砲店』
履歴に残っていた名前を入力すると、ここから徒歩で十二分、という検索結果が出た。
こんな近くにあった。
学校の近く、とは思っていたけれど、具体的に歩いて十数分、しかもこの空き時間で行って帰ってお釣りが出る距離だと分かって、マチの体温が僅かに上がった。別に入らなくていい。外から見て、検索で出てきたお店がそこにあるのだと確認してこようか。特に心の中で言い訳をすることもなく、マチはリュックを背負い直して歩き出した。風が強い日だった。春にしては空気はからっと乾き、服の袖をはためかせるほどの風がキャンパス内に生えている無数の木を揺らしている。今日は低めのポニーテールにしていたマチの髪も風になびいた。こういう、風の強い日はいい日だとマチは考えるようにしている。走るとき、背後からの風なら送り風。今日のような向かい風ならば、体を適度に冷やしてくれる。髪を揺らし、大股で歩きながら、マチは向かい風を歓迎した。
大学の周辺は札幌駅北側にあたり、学生向けのアパートや年季の入った雑居ビル、新しく建てられた中層マンションなど、古いものと新しいものが混在している。ただ、区画(くかく)だけは整然と四角く並んでおり、マチは迷うことなく堀井銃砲店があるはずの住所まで辿りついた。
事前に店舗の写真を見ていて良かったとマチは思った。知らなければ、きっと洒落た時計店か何かだと思って、掲げられた古い看板も見落としていただろう。それだけ、堀井銃砲店は近代的な店構えで市街地に溶け込んでいた。マチはスマホを片手に、横目でチラチラと中の様子を観察しながら店の前を二往復した。小さなショーウインドウには弾薬の箱と、木の箱に入ったアンティークっぽいナイフが並べられていた。銃はない。それはそうか、とマチは納得した。合法の条件下で売っているからといって、日本で往来に面した場所に銃が並べられるはずがない。
ガラスのドアの向こうは暗く、屋外が明るすぎることもあって店内の様子は分からない。
普段慣れ親しんだ大学のキャンパス近くであるここで、銃が売られている。
マチの中で、目の前の小綺麗な店構えと事実とがなかなか結び付かなかった。
以前、家族で行ったアメリカ旅行でガンショップを見たことは何度かあった。大型ショッピングモールの一角で見た店はアウトドアショップの一種という雰囲気で、カウボーイハットの男性が気軽な様子でライフルを品定めしていた。また街中で見た、入口に厳重なセキュリティロックがある店では、奥でいかにも厳つい(いかつい)店主が拳銃を手に交渉をしていた。
それぞれの地域の治安や銃の用途を考えると、それが自然な販売方法なんだろうな、とその時マチは思った。害獣駆除やスポーツで扱う場合は比較的カジュアルに。防犯目的で個人が所持することを想定した地域では厳重な管理のもとで。指先一つで生き物を殺傷できる火器(かき)を個人が所持するとはどういうことか。ちょうどアメリカでは拳銃所持規制の問題が取り沙汰されていた頃だったから、銃に縁のない日本で育ったマチにもそれなりに印象深い景色だった。
そして今。自分が通っている大学の近くで銃を売っているというこの店は、中はどうなっていて、どんなお客さんが通う銃砲店(じゅうほうてん)なのだろう。
三度めの往復に入ろうかという時、店のガラス戸が開いて中から人が出てきた。
髪が真っ白で、小柄な高齢女性だった。歳の頃は八十歳ぐらいか、どこにでもいそうな、地下鉄で見かけたらマチもすぐに席を譲るようなお婆さんだ。手に箒(ほうき)と塵取り(ちりとり)のセットを持っている。
マチはそのお婆さんとばっちり目が合ってしまった。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
感じのよい微笑みと共に挨拶をされ、思わずマチも頭を下げた。お婆さんは手にした箒で店の前の歩道を掃き始めた。「今日は風が強いわねえ」と口にしているので、マチも思わず立ち止まって「そうですね」と相槌を打ってしまう。
「風が強いとホコリがひどくて。これでも、スパイクタイヤの頃よりは大分ましになったんだけど」
「そうなんですか」
「あ、お嬢さんの生まれた頃はもうとっくにスタッドレスか。ごめんなさいね、年寄りの立ち話に付き合わせて」
「スタッドレス」とは、スタッドレスタイヤの略称です。これは、冬季や寒冷地(かんれいち)で使われるタイヤで、特に雪道(ゆきみち)や氷上(ひょうじょう)での走行に適しています。スタッドレスタイヤは、ゴムが柔らかく、凍った路面でも滑りにくい構造になっており、タイヤの表面に刻まれた特有の溝(みぞ)トレッドパターン)が雪や氷にしっかりとグリップします。
「いえ」
お婆さんはちりとりを持ち上げてガシャンと蓋を閉めると、ふう、と腰に手をやった。そして何気なくマチの方を見る。
「よかったら、中入ってみる? 珍しいものもあるから、時間あるならご覧になって」
「え、いいんですか、はい」
にっこりと毒気(どくけ、どっき)なく誘われて、マチは思わず頷いてしまった。買う予定などまったくないが、せっかく誘われたことだし店内を見るぐらいなら、とお婆さんに続いて中へと入る。
おお、と思わず声が出そうだった。中に入ると、内装はなかば宝飾店のようだった。整然と並んだガラスケースの中は、入り口に近い手前側は手入れ用品らしきものやハンズでも売っているようなアウトドアナイフ。そして、奥のケースには猟銃(りょうじゅう)が縦になって並んでいた。その下には、もしバッグに忍ばせているのが見つかればお巡りさんに捕まるであろう大きなナイフが陳列されている。
店の内側から通りに面した窓を見ると、車や通りを歩く人の様子がよくわかる。外から店を見ていた時は気づかなかったが、外から中は見えづらく、中から外の様子はすぐ分かるようになっているようだった。マジックミラーでこそないが、光の性質をうまく使ったつくりだ。
なるほど、こういうこと。
マチは納得した。合法的に銃を販売している店であっても、いや、だからこそ、セキュリティには相当な気をつかっているのだろう。そう思うと、店の奥の天井から吊り下げられている防犯カメラも、よくあるようなダミーどころか高性能なものかもしれない。
もしかしたらこの老婦人も、さっきは道のホコリを掃除し(そうじし)に出てきたのではなく、店をちらちらと覗き込んでいる自分を不審に思って声をかけてきたのかもしれない。