夜明けのハントレス 第14回 河﨑 秋子 2024/12/05

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の家にあった雑誌を読んで狩猟に惹かれるが、狩猟免許を取りたいと話すと彼はそれを歓迎せず、二人は別れることに。狩猟をやろうと思っていると友人のえみりに話すが、彼女もまた、理解してくれなかった。そして翌年十月。狩猟免許を取得したマチは、ハンターとして初めての鹿撃ちに参加し、見事一頭を仕留めた。

 マチはハンター一年目となったシーズンで、七頭(ななとう)の鹿を仕留めた。もちろん、撃ったが逃したケースはその五倍以上になる。「みんなそんなもんだ、むしろ立派な結果だ」と新田は慰めて(なぐさめて)くれた。

 マチは獲物の数を求めることには意義を見出さなかった。銃を持ち、山に入れば当然その日に獲物を手に入れたいとは思うものだが、先輩ハンターの撃ち方、判断基準、山での振舞いなどをよく見聞きすることを心がけ、ボウズの時も経験として何かを持ち帰ることを目標にした。

 一年目。自分は初心者(しょしんしゃ)。それはいい緊張をマチにもたらしていたし、幸いなことにそんな新人を先輩たちは見守り、経験を積ませてくれた。

 チーム戦。いつのまにか、狩猟についてマチは漠然とそういうイメージを抱いた。一頭の獲物を仕留める時はもちろん一人のハンターが撃つのだけれど、山に入ること、獲物を見つけることは情報を共有しながらでないと格段に効率が悪くなる。陸上やトレイルランなどといった個人競技に没頭(ぼっとう)していたマチには、新鮮な体験だった。

 翌年、四年生になり、就職活動が本格的に始まった。マチはもちろん普通に企業に就職するつもりだ。

 生家(せいか)が経済的に裕福(ゆうふく)であるとはいえ、大学卒業後も食わせてもらうつもりはさらさらない。母が経営するジムでインストラクターのバイトを続けさせてもらう選択肢も考えなくはなかったが、その前に両親から「ちゃんとよそ様の企業で会社員を経験しておきなさい」とのお達し(おたっし)があり、マチも納得して頷いた。

 父が重役を務めるポラリス製菓に縁故で入社することは、両親もマチもまったく考えていなかった。あくまでマチは一人の新卒として社会人になることを希望していた。

 マチが志望していたのはアウトドアメーカーや販売店、スポーツメーカーが多かった。もともとトレイルランやジムのバイトをしていた関係上、この分野に適性があると思っていたし、ハンターとなった今では興味も増している。

 就職活動が始まるという時、マチは父に相談することにした。友人たちに、時折皮肉交じりで「マチってマイペースだよね」と言われ、その自覚もないではないが、そうであっても人生を決める大きな岐路に不安はあるのだ。

「ぶっちゃけた話、ハンターになったことって、影響大きいかな」

 帰宅し、リビングで向かい合った父に、マチはそう切り出した。

「正直、採用する側としては入社希望者の趣味や銃砲の所持は採用に影響させちゃいけない」

 父はくつろぎつつ、険しい顔を隠さなかった。珍しいことだ。

「と、いうことになっている。建前はね。ただ、人が人を採用するということは、AIが判断するわけじゃない。例えばさ、採用担当者じゃなくても、同僚に狩猟にあまり良くない印象を持つ人がいると仮定しようか」

 マチは頷き、えみりのことを思い出した。費用のかかる狩猟の世界に踏み出したマチに、彼女が向けた厳しいもの言いを思いだす。そうでなくとも、動物の命を奪う行為自体に良い感情を抱かない人はいるのだ。

「その人から口さがないことをマチが言われて、結局誰かが嫌な思いをするリスクはある。もし、マチと同じぐらいの能力で、ハンターではない人がいた場合、マチじゃない人を採用した方がリスクは減らせる。それはもう、仕方のないことだ」

「うん、分かるよ。仕方ない」

 マチも子どもではない。それぐらいのことは仕方ないと飲み込める。自分の信念を他人も同等に理解してくれるとは限らない。それは人だけでなく法人においてもだ。けれど。

「チャンスが減るのは、残念だけどね」

 マチの心を察したように、父は苦笑い(にがわらい)をした。

「ねえ、パパの会社で、新卒の女子学生がハンターだったら、内定出す?」

 マチは少し悪戯っぽく(いたずらっぽく)言った。答えは何となくは分かっているのだが。

「優秀なら問題にしない、と言いたいところだけどね。ちょうど人材が欲しいと思っている部署が、もしさっき言ったようにハンターの子が肩身の狭い思いをしそうな場所だったなら、採用は控えておくかな」

「納得。降参(こうさん)」

 わざとらしく首を垂れるマチに、父は笑いかけた。

「要は場所とタイミングとマッチング。ハンターだからOK、ハンターだからNG、って簡単に割り切れるものじゃないよ。人間関係のことなんだから。それより、履歴書書く時に狩猟免許のことは隠すんじゃなくてちゃんと書きなさいね。隠してて入社後に明らかになった時の方が、余程(よほど)トラブルになりかねないから」

 ぐうの音も出ない父のアドバイスに、マチは神妙に礼を言った。

 父の助言通り、マチは履歴書に狩猟免許があること、趣味は狩猟であることを隠さず書いて就職活動に臨んだ。このことで書類選考時に不採用とした企業がもしかしたらあったのかもしれないが、マチは気にしないことにした。

 そして、いざ面接となると、やはり物珍しさから狩猟について問われることは多かった。マチは臆さず、堂々と答える。興味があって免許を取った。今は先輩ハンターに教えられて猟期には鹿を獲っている、これからも安全に気を付けながら上達したい、と。

 中には自身や知り合いがハンターだという面接官や役員もいて、他の面接官そっちのけで狩猟の話題が盛り上がることもあった。ただし、必ずしもそれで内定がもらえたわけでもなかった。そういうもの、と納得して次に挑んだ(いどんた)。

 結果的に、マチは三つの会社から内定をもらった。そのうち、勤務地が道央圏内であることや給与面を総合的に判断し、札幌に本社があるアウトドア用品の販売会社に決めた。最終面接のとき、役員が「うちの社員にも何人かハンターの免許がある人いますよ」と軽く言及してくれた会社だった。

 正式に内定の通知を受け取った十月、マチのハンター二年目のシーズンが始まった。卒業後の道が決まっていると、何となくほっとする。

 狩猟解禁から初めての日曜日、マチはさっそく新田のいつものグループに連れられ、厚真( あつまの山で鹿撃ちをすることになった。免許取得前の見学や昨シーズンに幾度か訪れたことがある。斜面が多くて歩くのに苦労するが、その分バックストップを確保して安全に発砲できる猟場だ。

 時間ができれば射撃場に通って練習していたとはいえ、約半年ぶりの狩猟だ。とにかく怪我だけはしないように、仲間にもさせないように、と心がけつつ、紅葉に彩られた山に一歩足を踏み入れると心が躍る。

「シーズン初めだし、マっちゃんは慣れた俺と一緒に行こうか」

「はい、よろしくお願いします!」

 新田とマチが組んで山へと入る。新田は体格が小さく、細身だが、小さな背中がまとうオレンジ色のベストを見ていると心強かった。半年ぶりの猟で、ぜひ鹿を、できれば太った若いメスを仕留めたい。マチの足取り(あしどり)は軽かった。

 その日、鹿の影はそこかしこに見えた。しかしたまたま逃げられたり、他のグループで解体の応援を頼まれて応じるうち、たちまち昼が過ぎ、午後の太陽が傾いてくる。小川沿いに切り立った斜面が続き、それが影になっていた。川辺(かわべ)の柔らかい泥には鹿の爪の形そのままに足跡(あしあと)が残っている。まだ乾いていないそれを追ってみろと新田が促し、マチは下を向いて歩いていた。

 ふいに、斜面の上でガサリと大きな音がした。鹿が枯葉(こよう)を踏む音よりも大きい。

 まさかクマが。いや足跡も糞もなかったのに。マチが一瞬だけそう考えながら音がした方を見上げると、二本足で立つ生き物の姿が見えた。

 相手がベストを着ていてよかった、と体の力が抜ける。足音の主は、新田のグループとは別のハンターだった。ベストを着ていなければ、一瞬クマと誤認していたかもしれない。その安堵も、人影の詳細を認めて消し飛んだ。

 相手はこちらに銃口を向けていた。向こうもこちらが人間だと分かり驚いたのか、すぐに方向を逸らせたが、一瞬だけでも狙われて(ねらわれて)いた。そう理解して、マチの背筋を冷たい血が流れた。

「勇吾(ゆうご)!」

 新田がいつにない大きな声を出す。勇吾と呼ばれた相手は、銃を肩にかけると、しぶしぶといった雰囲気で降りてきた。細身で長身。中年のようだが、競歩の選手みたいな体つきだな、とマチは思った。

「新田さん。久しぶりです。鹿ですか」

「ああ、去年免許取った新人さん連れてな」

「こんにちは」

 名乗らない方がいい。直感でマチは感じ、短い挨拶のみを口にした。それまでこちらを見ようとしなかった勇吾が、じろりと横目でマチに視線を巡らせた。嫌悪感(けんおかん)を隠そうともしない相手に対し、マチは強いて無表情を貫いた。

「新田さんも好きですねえ」

 呆れたような声だった。新人にものを教えることについてなのか、若い女に狩猟を教えることについてなのか、どちらかで自分が抱くべき怒りの種類は変わる。マチはじっと勇吾を見据えた。新田がゆるりと体を揺らして二人の間を遮る。

「やる気のある若いのを育てるのも歳くったハンターの役割だよ」

 新田が静かな声で言った。声の間から滲む気迫に、怖いな、と近くにいるマチでさえ感じる。しかし、勇吾はふう、と呆れたような小さな溜息(ためいき)を吐いた。

「怖い思いさせたのはすんませんでした。今後気を付けます」

 帽子をぬいで勇吾は軽く頭を下げた。野球少年のような坊主頭だった。明らかに形式だけの謝罪だが、新田は「おう」と律義に応じる。

「今も一人で山に入ってんのか」

「ええ。今日は、肩慣らしに鹿をね」

 帽子をかぶり直しながら勇吾は頷いた。新田は明らかに渋い表情で腕を組む。

「単独巻き狩り(たんどくまきがり)が悪いとは言わねえよ。ただ、獲物も山も、お前一人のためにあるモンじゃねえことを弁えとけ。俺は身内を事故の被害者にも加害者にもするつもりはねえんだ」

 口調はいつも通りなのに、端々荒くなった言葉に新田の怒りを感じた。

「分かってますよ。初心者(しょしんしゃ)じゃあるまいし」

 勇吾はマチの方を見て、初心者、と発言した。挑発には乗るな。そう思っても、マチの目は険しくなる。その視線を受け流しながら、勇吾は踵を返し、もといた藪の方へと歩いて行った。

「まだお前、クマば狙ってんのか」

 勇吾の背中に、意を決したように新田が言う。勇吾は振り返ることなく、肩の上で右手をひらひら振っただけだった。見送る新田の、ガンベルトを握る手に力がこもっているのが分かった。

 勇吾の姿が完全に見えなくなってから、新田は気を取り直したようにマチを見た。

「悪いな、マっちゃん。嫌なとこ見せちゃって。験が悪いや。今日はもうやめとくか」

 マチは頷いて撤退に同意した。師匠の精神が落ち着いていない状態で、マチも平静に銃が撃てるはずもない。新田は先に帰ると無線で他のメンバーに伝えた。

 車に戻るまでの道すがら、新田はぽつりと口を開いた。

「あいつ、三石勇吾(さんごく ゆうご)は、俺がまだ猟友会の副会長になりたての時にハンターになって入会した奴でさ。十二、三年前かな」

「え、意外と……」

 最近ですね。そう言おうとしてマチは口を噤んだ(つぐんだ)。彼が持っていたのはライフルだ。散弾銃を十年以上継続所持しなければライフルは持てない。

 ふてぶてしい態度から、てっきり、自分のように若いうちからハンターになって長年ライフルの経験を積んだ人かと思っていた。猟友会には、新田をはじめ猟歴三十年四十年というハンターがざらにいる。勇吾が十余年で落ち着きともいえる妙な存在感を放っていたのは、性格ゆえか、それとも経験の密度が高いのだろうか。マチには判断がつかなかった。

「恥ずかしいことだが、仲間内(なかまうち)でちょっと色々あってね。今は猟友会に所属しないでハンターをやってる。ここいらの山ででくわすとは思ってなかったがな……」

 消えていった言葉に新田の後悔が潜んでいるような気がして、マチは自分から詳しいことを問うことはできなかった。そのまま二人とも無言で駐車場所へと辿りつく。

「今日は、悪かったな。ボウズで帰らせることになっちゃって」

「いえ。また、新田さんの都合いい時、よろしくお願いします」

 また、というマチの言葉に、新田はほっとした表情で車に乗り込んでいった。いい師匠だな、と改めて思う。人間関係でも何でも、全てを円滑に動かせる人だけがいい人なわけじゃない。トラブルがあっても、それでも自分を育て続けてくれる新田にマチは感謝した。

 それにしても、とマチは車を発進させてから思う。

「格好悪い人」

 新田の前では決して言えないことを呟くと、一層強く実感する。あの三石勇吾という男のことだ。

 マチを若い女と侮るのは勝手だが、年長者で、しかも多少なりとも勇吾のことを心配している新田に対してあの態度。年齢は五十かそのあたりだろうが、年齢とライフルを持つ立場に相応しく人間性が成熟しているとは、とても思えない。

「ほんと、格好悪い奴」

 それでも、いくら格好悪くとも、猟友会に所属していなくとも、彼はハンターなのだ。フロントガラスごしに差し込む西日にマチは目を細め、手をかざした。

 太陽と地平線の間に、指四本。一本で十五分として日没まであと一時間と少しある。

 まだ山の中にいて、独り獲物を追っているであろう勇吾は果たして鹿を撃てただろうか。

 同行者がいないハンターが、完全に一対一で獲物と向き合った時にどういう表情をするのか、マチにはうまく想像ができなかった。

(つづく)