夜明けのハントレス 第22回  河﨑 秋子 2025/02/06

エンタメ 読書

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟免許を取得。就活も終え(おえ)、ハンター二年目の猟期が始まった。マチは山で痩せたクマに遭遇し(そうぐう)仕留めるが、そのクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんの勧めで、腕のいいハンターだという「アヤばあ」を訪ねたマチ。彼女の話を聞いたあと二人で近くの山へ入ると、そこには人の足跡(あしあと)が。

 マチはすぐ自分の格好(かっこう)を確認した。

 冬用の防水ズボンは黒。アウトドアジャケットは赤とオレンジの中間で、それなりに目立つ色だ。アヤばあは上着こそ地味な紺色だが、下はいつも畑作業で身に着けているらしき赤い化繊(かせん)のシャカシャカしたズボン。

 雪が積もったこの山林(さんりん)にはとけ込みそうもない色だ。もし来訪者がハンターだとしても、誤射される可能性は下がる。もしくは、誤射された場合でもこちらに落ち度がないことは主張できる。

「なんか怪しいね」

 アヤばあはそう言って、スノーシューの足跡まで近づいた。踵側(かかtぽがわ)から爪先を見る格好でしゃがむ。マチも同じようにしてアヤばあの視界を探った(さぐった)。雪の上についている足跡で、山の奥へと向かっている足取りが分かるだけだ。

「怪しいっていうと、どういう意味での怪しさですか」

 まさか、ハンターの足跡ひとつで性根(しょうこん)の悪さや違法行為をしているかどうかが分かるのだろうか。そんな疑問はアヤばあの「体調」という答えにかき消された。

「ほら、足跡がまっすぐよりはちょっと左右に(さゆう)ふらついているように見えるだろ。雪にそれほど沈み込んでいないから重装備ではないだろうに、踵というより、足そのものを地面(じめん)に引きずってる(ひきずってる)」

 マチは指摘されて初めて気がついた。確かに、言われた通り足跡と足跡の間は足を引きずったような線で繋がっている。アヤばあは険しい表情で足跡が向かう先を見ていた。

「ちょっと追ってみよう」

「はい」

 もし、ハンターが山に入っていたら、事故防止のために速やかに回れ右する(まわれみぎする)のが最善策だ。だが、アヤばあの言う通り、もし足跡の主の体調に問題があるのなら、放ってはおけない。

「自分の体が一番なんだよ」

 足跡の右側を歩きながら、アヤばあは言った。

「いくら畑荒らされる(はたけらされる)から鹿撃つっていっても、人里(ひとさと)にクマが出るから撃つっていっても、結局は事故で死ぬとか怪我することなく、安全に帰って来ないば、どれだけ腕良くったってばかだ」

 アヤばあは前を見つめ、その声と表情はどこか憤って(いきどおって)いるようにも思えた。マチは肯定(こうてい)の相槌を打ちながら、堀井銃砲店の面々や新田らが口を酸っぱく(すっぽく)して説く安全性について思い返していた。

 マチがかつて心血(しんけつ)を注いでいた長距離走やトレイルランだって、健康を最優先で自己管理をしていた。狩猟というのは他人を巻き込む可能性がある分、輪をかけて(わをかけて)安全を重視する。それは免許取得の時の安全講習でも叩き込まれるし、先輩方の現場での振舞いにもあらわれている。

 けれど、足跡の主は足運びに支障が出るほど体調を崩していても、なお山の奥へと向かっている。迷っている訳でないのなら、自らの意思で引き返さずに山奥を目指しているということだ。

 アヤばあが怒っている理由が分かる気がした。そして、そんなハンターはどんな人だろうという興味がほんの少しだけ浮かんできた。

「歩いてる人、どこへ向かっているとか、心当たりあります?」

 マチの質問に、アヤばあは険しい顔で沈黙を保っている。どうしたんだろう、と答えを待っていると、重苦しく(おもくるしく)口を開いた。

「私がこれから向かおうと思っていた、クマの冬眠場所と同じ方向だ」

 え、とマチは足跡が向かう先を見た。葉を落とした木々が斜面に連なって(つらなった)方角が分かりづらい。アヤばあの先導がなければ、スマホがあっても単独行(たんどくこう)は難しそうな地形だ。

「冬眠してるクマでも狙いに行ったか。ばかたれめ」

 心底見下げ果てた(しんそこみさげはてた)、という声でアヤばあが足跡に向かって罵倒する。もしかして、この人物に心当たりがあるのだろうか、と思っているうちに、アヤばあの歩くペースが少し上がった。

「いた!」

 斜面を登り、沢が削った低地を見下ろして、アヤばあが鋭い声を上げた。凍った沢の近くに、橙色(だいだいいろ)の塊が見える。ハンター用のベストだ。猟銃を雪の上に置き、蹲った(うずくまった)体勢で、動かない。雪面(ゆきめん)に血が飛び散っている様子はなかった。

 アヤばあはこれまでのゆっくりした動きからは考えられない速さで斜面を駆け下りた。マチも続くが、自分のものでないかんじきと、一度とけてから凍ったジャリジャリとした斜面の雪に足をとられ、少し遅れる。

「あんた、大丈夫か!」

 アヤばあに背中を強く叩かれ、人影はゆっくりと動いた。よかった、生きてる。

「大丈夫ですか、お名前言えますか!」

 マチは膝をつき、相手の肩に手をやって顔を覗き込んだ。男性だった。顔色は悪く、意識がはっきりしていないのか目が虚ろ(うつろ)だ。痩せているうえに顔の筋肉に力が入っていないせいか、年齢が高いように見える。

「だい、じょうぶ」

 か細い返事があったが、弱々しい響きはとても大丈夫とは思えない。

「救助呼びます」

「頼むよ」

 アヤばあに確認し、マチはポケットのスマホを探した。すると、男はこれまでの弱々しさから一転し、強い力でマチの手を払った。

「やめ、てくれ。それは」

 懇願するような、睨むような目に力が籠る(こもる)。そんなこと言ってる場合じゃ、とマチが説得する前に、アヤばあの手が飛んだ。べしり、といい音がして、男がかぶっていた黒いニット帽が雪の上に落ちる。

「フラフラになっておきながら勝手言ってんじゃないよ。意識あるんなら、これ食べな」

 そう言うと、黒糖飴(こくとうあめ)の包装紙を取って男の口に捻じ込んだ。

「ゆっくり舐めな。噛むんでないよ。ほら、腰下ろして」

 アヤばあは自分が着ていた上着を脱ぐと、雪の上に広げた。そこに男を体育座りさせる。男は意表を突かれたのか、抵抗する力がないのか、大人しく従った。カロカロと、大きな飴玉が歯に当たる音が響く。

「マチちゃん、水ある?」

「はい」

 念のため、小容量のミネラルウォーターをポケットに忍ばせて(しのばせて)いた。アヤばあと歩いている間、脱水症状予防に唇を湿らせる程度に口をつけていたが、そんなことを気にしている場合ではない。アヤばあは男の手袋を取り、マチから受け取ったペットボトルを握らせた。

「水、なら、俺のリュックに」

「いいから飲みな。少しずつ」

 男は言われるままに水を飲み始めた。顔色は急速に良くなっている。ぷふう、と息を吐いた時には、目に力も戻っていた。

 マチは「ハンガーノック?」と心当たりを口にした。男が虚を突かれたようにはっとした表情になる。怪訝(けげん)そうなアヤばあに、説明を試みた。

「ええと、低血糖状態だったんじゃないですか。だから、アヤばあさんの飴を口にしてすぐ、顔色が良くなったのかと」

「なんだ、低血糖(ていけっとう)かい」

 呆れたようなアヤばあの言葉に、男は面目なさそうに頭を下げた。とはいえ、ハンガーノックは十分鍛えたアスリートでも、山に慣れた登山家でも疲れや補給のミスでいつでも陥る可能性があるもので、軽く見ていいものではない。

「とりあえず血糖値上げて、熱量になるものを摂らないと。これもどうぞ」

 マチは予備で持ってきたエネルギーバーを差し出した。男は軽く頭を下げると、バリバリと一気に食べ始める。

「ゆっくり噛みな、こんなところで喉に詰まらせられても困る」

 アヤばあに窘められ(たしなめられ)ながら、男はエネルギーバーを完食し、ペットボトルの水も飲み干して立ち上がった。

「ありがとうございました。お陰で、また行けます」

 はっきりとした、張りのある声だった。マチはようやく、男がそれほど年を取っていないことに気付いた。四十代後半か、五十代前半といったところか。

「はあ!?」

 アヤばあが大きく顔を歪めた。

「馬鹿言うな。体も頭も動かなくなってたってのに、まだ奥行く気かい。帰るんだよ。とにかく山下りて私の家に」

「いや、せっかく来たんだし。それにこれ以上世話になる訳には」

「いいから来な! うちの近所の山で人死に(ひとじに)が出たら、なおのこと迷惑だわ!」

 ベテランハンター、というよりも、地方で人生経験を重ねたアヤばあの言葉には説得力があった。男はしぶしぶ撤退を決め、三人でとりあえずアヤばあの家に向かうことになった。

 飴玉(あめだま)とエネルギーバーのお陰で、男は自分の銃を持って歩ける程度には回復しているようだ。

 マチは男のリュックを代わりに背負い、アヤばあの先導で、来るのにかかった時間の倍以上をかけて山を下りた。

 橙色(だいだいいろ)の夕陽(ゆうひ)が差し込む茶の間のソファで、男はうなだれていた。アヤばあの家に上げられ、たっぷりの茶や作り置きのふかしイモ、ついでにマチが持ってきた最中を食べさせられて、低血糖状態からはすっかり脱している。

 アヤばあは「米も食わせておいた方がいいね」と台所に立っている。マチはクマの剥製(はくせい)が見えるストーブ脇の座布団から、こっそり男を観察した。

 男は顔色が良くなっただけに、今度は表情の暗さが目についた。狩猟用ベストを脱ぐと、迷彩柄のズボンとカーキ色のトレーナー、短く刈り込んだ髪のせいで、自衛官に見える。細身で筋肉質の体形は長距離走者のそれに近い。だいぶ鍛えているな、とマチは察した。

 視線を感じたのか、男がマチを睨んだ。目が合い、その視線の鋭さに、マチの記憶の箱が開く。

「ミツイシユウゴ、さん?」

 名を呼んでから、つられるように記憶が溢れた。以前、獲物と間違えられて一瞬銃口を向けられた、単独猟のあの人だ。

「なんで。どこかで会ったか」

「あの、新田さんと山に入った時に、一度。岸谷万智といいます」

 勇吾は思い出したのか、ああ、と顔をしかめた。これまでは、助けられたばつの悪さからか塞いだ態度だったものが、明らかにこちらを見下した表情へと変わる。

「新田さんのコブの。今日は婆さんのコブか」

「は?」

 別に、助けて恩を売るつもりなどさらさらない。とはいえ、その態度と言い草は何なのか。

「コブというのは、どういう意味でしょう」

 マチはわざと敬語で、最大限冷静に答えた。勇吾はさらに馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「コブはコブだろう。若いお嬢ちゃんがちょっと狩猟をつまみ食いして、俺らの世界にぶら下がってみたいんだよな」

「わ」

 分かりやすすぎる男尊女卑(だんそんじょひ)、性差別主義糞野郎。

 マチは怒りよりも先に、呆れて思考停止した。令和の世の中、腹の中はともかくとして、ここまで人を面罵する(めんばする)人間がいるとは思わなかった。

 そんなことありません。失礼です。私のことを知らない癖に勝手に。取り消してください。そんな、不快さを表明する言葉の数々よりも先に、余りにも素直な言葉がまろび出た。

「頭大丈夫ですか」

「ああ!?」

 状況的に、喧嘩を売ってきたのは自分であろうに、勇吾はスイッチが入ったかのように顔を真っ赤にした。マチも真正面から相手を見る。

 不思議と、マチは冷静だった。もしかしたら殴られるかもしれないという恐怖はある。だが、貴様ごときに負けるものか。勝てないまでも、負けてなどやらない。社会的にだろうと身体的にだろうと、必ずやり返してやる。

 マチは勇吾をじっと見た。びくり、と勇吾が身を震わせたところで、唐突に雷が落ちる。

「ばかたれがっ!」

 アヤばあが台所と茶の間を仕切るビーズののれんをかき分け、大声を上げていた。その手には、ほかほかの焼きおにぎりが載ったお盆がある。

「鉄砲撃ち同士、喧嘩していいことなんざ一つもないよ! 特にあんた!」

 お盆をテーブルに置くと、アヤばあは勇吾に詰め寄った。

「私は危険な目に遭わせたくてクマの寝床教えたわけじゃないんだ。それを、無茶して人に迷惑かけておきながら、若い子ば馬鹿にするたあ何様だってんだよ!」

 先ほどまで怒りに燃えていた勇吾も、さすがに恩人に詰められて「いや」「俺は別に」と弱り切っている。アヤばあの話で、秋口にクマの場所を聞きに来た若い子、というのは勇吾だったのか、とマチは理解した。

 つまり、単独猟でクマ撃ちがしたくてアヤばあを訪ね、再訪して無理をした挙句にアヤばあとマチの世話になり、さらにはマチに見当違いも甚だしい言いがかりをつけてきたわけだ。

 格好が悪すぎる。

「あんたもう帰れ! ほら、上着着て荷物持って、外の軽トラ乗んな! 車止めたとこまで送ってってやるから! ほら、焼きおにぎり包んじゃるからちゃんと持って!」

「いや、俺はもう十分体力戻ったんで」

「ちゃんと飯食ってねえから山ん中で倒れるし馬鹿なこと言い出すんだろうが! ほらさっさと行く!」

 怒濤(どとう)の勢いで、文字通り首根っこをつかんでアヤばあは勇吾を外へと摘まみだした(つまみだした)。すぐに軽トラックのエンジン音が響き、遠ざかっていく。

 暖かい茶の間に一人残されたマチは体の力が抜け、ストーブの前で横たわった。

(つづく)