夜明けのハントレス 第27回 河﨑 秋子 2025/03/13 NEW
エンタメ 読書 【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは狩猟免許を取得。就活も終え、二年目の猟期が始まった。マチは、初めて一人で入った山でクマに遭遇(そうぐう)し、そのクマを仕留めるが、撃ったことを後悔していた。猟友会会長の新田に、その経験をリセットしたほうがよいとアドバイスされ、再びアヤばあを訪ねたマチ。一人で猟に行く前に、まずはアヤばあと二人で山へ入る。
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前回、銃なしでアヤばあと山に入った時とはまるで違う。マチはいつの間にか噛みしめていた歯を緩めながら思った。緊張感が違うのだ。アヤばあの足取りは前と同じくゆっくりだが確実で、しかし周囲への気の配り方が異なる。
撃つべき獲物を探して歩く、熟練(じゅくれん)の猟師の目をしていた。
「誰かと猟に出るのは久しぶりだわあ」
マチの一歩先を行くアヤばあが、のんびりと言った。声は明るい。同行者がいるのは面倒臭い(めんどうくさい)、という雰囲気がないのをいいことに、マチは少し気を抜いた。
「いつもお一人で猟に出ている時と、私みたいなのがくっついてる時とで、感じ方って違いますか」
「違うね」
振り返ることなくアヤばあは言った。一転して、鋭い声だった。
「一人だと、何でもできるような気がしちゃうから。それはいいことでも悪いことでもあるから、たまに人と一緒に行くのは、いいことだよ」
「そう、なんですか」
アヤばあとは逆に、単独猟の経験が浅いマチにはピンとこない。何でもできる、という感覚が特によく分からない。
雪の上には鹿の気配が幾つか残っている。雪のとけた小川沿い、南斜面で雪が薄く、笹(ささ)が露出しやすいところの近く。鹿が多いのではない。アヤばあはこの山の鹿の動きが頭に入っていて、的確にその場所を追っているのだろう。
ふいに、アヤばあは筋状(すじじょう)に残る鹿の足跡を見てしゃがんだ。
「何頭かわかるかい」
問われて、マチもしゃがみこんで鹿の足跡を数える。古いもの、新しいものが入り混じり、しかも両方向に向かう跡が交わされた小さな獣道(けものみち)は、頭数を問われてもうまくカウントができない。何頭かの群れが何度か往復したのか、はたまた単独で行動している鹿がそれぞれ時間を変えて行きかっているのか。
「三、四……? 蹄(てい)の大きさの違いから、それぐらいしか分かりません」
マチは素直にギブアップした。新田や熊野なら「これは何頭で」と聞く前に教えてくれるせいか、自分で正解を導き出す経験が浅いことがマチには今さら恥ずかしい。
「大きく違わないよ。小さいメスの群れが一つと、大きなオスが一頭、ほらこの蹄が大きいの。これが何往復かしているね」
アヤばあの解説に、マチはなるほどと頷いた。正解を言われれば納得はできる。でも自分で考えて正解に辿りつけていない。一人で山に入れば、それは命取り(いのちどり)になる。
「最初は鹿と牛の蹄の違いも分からんもんだよ。頑張んな」
アヤばあはマチの肩を叩くと立ち上がった。さすがに鹿と牛は区別がつくのでは、と思いつつ、マチは励ましをありがたく受け取った。
斜面を横断するかたちで獣道を百メートルほど辿っていくと、途中に糞が落ちていた。コロコロとした粒状のそれを、アヤばあは手袋を取って摘まむ。マチもそれに倣った。冷たく硬いが、力を籠めれば潰れる。
「近くにいるね。準備しよう」
「はい」
弾を確認し、いつでも発砲できる状態にして、アヤばあの後ろに続く。アヤばあの歩みはさらに速度を落としていた。ジャリ、ジャリ、と、ザラメ状になった雪の表面をなるべく音を立てないように進んでいく。遅く進むことで却って足に負担がかかるな、とマチはアヤばあの脚力に改めて感心した。
斜面を登りきると、眼下に小川の水が溜まった水たまりが見える。そこで、三頭の鹿が水を飲んでいた。雪が踏み荒らされ(ふみあらされ)、いつも鹿が集まるポイントなのだと分かる。鹿たちはすっかりくつろいで、こちらには気づいていない様子だ。
アヤばあとマチは顔を見合わせ、雪の上に膝立ちになり、銃を構えた。マチは横目でアヤばあのライフルに目をやった。古い型だが、使い込まれ、よく手入れされているのが分かる。
狙いを定め、アヤばあがこくりと頷いたのを合図に発砲する。音はほぼ重なっていた。
斜面に発砲音が反射する。鹿は、一頭が倒れ、残りは慌てて散り散りに逃げていった。
鹿は首と肩の境目を撃たれてもがいていた。マチは蹴られないだけの距離を保ち、撃たれた場所を確認する。自分が撃った散弾銃の痕跡ではない。仕留めたのはアヤばあだった。
「さすがです」
心からの賞賛を送ったのに、アヤばあはきょとんとした表情でマチを見返している。
「まあ、この距離だからねえ」
急に照れたように鹿に向き合い、懐からナイフを出した。ああ、一人で猟に出るのが常態ということは、褒められ慣れてないということか、とマチは密かに可笑しくなった。
仕留めたのはまだ一歳程度のメスだったため、解体は楽だった。二人できれいな雪の上まで鹿を引っ張ってきてから、アヤばあが手慣れた様子で皮を剥ぎ、内臓を取り出し、大まかに関節を断っていく。新田たちも捌くのは上手だが、アヤばあは背肉をぶった切らないように腰骨ぎりぎりの箇所で刃を入れるなど、食べる前提での工夫が感じられる。こちらもさすが、とマチは感心した。
必要な肉をザックに入れ、残りの皮などを始末し終えたところでマチは時計を見た。まだ午前十時を過ぎたところだ。
「さ、帰ろか。いつもならキツネにとられるの気にしながら分けて運ばないばだけど、今日は楽だわ」
アヤばあの後ろにつき、家までの道を引き返していく。あっさりとした猟、あっさりとした解体だ。アヤばあがいつもこんなふうに、肩ひじ張ることなく鹿を撃っているのがよく分かる。
「さっきの話だけど」
斜面を横断し、沢をひとつ越えたあたりで、アヤばあが口を開いた。
「一人だと、何でもやれちゃう気になるって言ったしょ。そう思う時もあるし、一人でなんでもやらないばないのが、大変な時もあるさ」
声には実感がこもっていた。肉の半分以上は若いマチが引き受けたとはいえ、アヤばあの古いザックはぱんぱんだ。その重さのぶん、来た時のかんじきの跡よりも帰路の跡は深く沈み込んでいる。
「はい」
マチも肩に重みを感じながら、他に何といいようもなく返事をした。
アヤばあの家まで戻ったのは、昼の十二時を回った頃だった。
「あとの肉の処理は私がやっから、あんたはちゃっちゃとお昼食べて、山入んなさい」
アヤばあの提案に甘えて、用意してもらったお茶漬けと温め直した味噌汁をかっこみ、マチは家を出た。
天候は雲の隙間から青空が見え始めたところだった。雪がまだ多いことを考えると、晴れたら一気に反射光が増す。マチはジムニーに置いてあったサングラスを引っ張り出して帽子のつばの上にかけた。
「行ってらっしゃい、気ぃつけてね」
着替えて割烹着姿になったアヤばあに見送られると、まるで自分が山に柴刈り(しばかり)にでも行くみたいだ。つい笑いそうになるのをこらえて、マチは「行ってきます」と手を振った。
途中まではアヤばあと同行した道を辿っていく。
二つの小川の合流地点で、マチは午前のルートを外れ、反対側の小川の上流を目指すことにした。まだきれいな雪の上に、自分のスノーシューで足跡をつけていく。しばらくは川沿いを歩くつもりだが、別にそこからそれて斜面を登っても、引き返しても構わない。自分で行く方向を決めていくのだ。
マチはふと足を止め、スマホの画面を確認した。電波は通じているが、アンテナは一本。少し心許ないうえに寒さからバッテリーは通常よりも早く消耗する。バックカントリースキーとかで準備も心構えもないまま遭難した人は、焦るだろうな、とマチは思った。
もちろん、マチはスマホをインナーの胸ポケットに入れて保温に気を遣っているうえ、荷物になると分かっていつつ予備のバッテリーも持ってきている。安全に。人に迷惑をかけないように。そのために準備は万全にしておくのがすっかり体と心に染みついている。
それでも、冬の山間部(さんかんぶ)で一人で遭難したら。その怖さはぬぐい切ることができない。知人や公共機関に救助を求めることができるならまだまし。下手をすると、行方不明になって春にようやく見つかる、という事故は令和の今でも起きうるのだ。
マチはペットボトルを取り出して水を一口含むと、耳掛けを浮かせた。アヤばあから雪崩(なだれ)の危険性は低い山とは聞いてはいるが、一応雪の軋み音などを探る。無音だ。そして生き物の気配もなかった。
鹿に限らず獲物というのは不思議なもので、普段は歩いているだけでよく見かけるような気がするのに、鉄砲を持ち、仕留めるぞという気持ちでいる場合、いくら山を歩いても、痕跡ひとつ見つからないこともざらだ。動物のほうでこちらの殺気を見抜いているというだけではなく、単純に、確率論とそこに意味を求めたがる人間の心理の問題だろう。つまり、偶然とそれをどう都合よく解釈するのかという話だ。まるで当たらない占いみたいだ。
「ふふ」
妙におかしくなって、歩きながらマチは笑った。一人だと、色々余計なことを考える。とても無駄だ。内容によっては、時間の無駄どころか考えすぎて害悪なこともある。でも面白い。
一人で猟に出る、ということの意味が、おぼろげに捉えられたような気がした。決まりごとがなくて、覚束なくて、自由なのだ。集団で山に入れば、当然役割が決められ、無線で連絡を取り合い、行動一つ一つに同行者の同意を求め、仲間に迷惑をかけないように心がける気持ちが生じる。とても大事なことだし、マチもそれが苦痛とは感じない。
しかし今、一人で山に分け入って獲物を探していると、判断の全てが自身によってなされ、因果の全てが一人だけのものだ。
「自己、責任」
近年とみに言われるようになった言葉を、マチは発音してみる。とても固い、コンクリートとガラスだけの世界の言葉のように思えた。
「一人でなんでもやらないば」
続いて、アヤばあからさっきかけられた言葉を思い出す。こっちの方がよっぽど今のマチにはしっくりきた。鹿を探すことも、撃つことも、歩くことも間違えることも、全部一人で。
アヤばあが、ひよっこである自分が同行しても厭わなかった理由が少しだけわかった気がした。たまになら、同行者がいることは楽しかったのだろう。あくまで、たまになら。
そんなことを考えていると、いつのまにか視線が自分の足元へと向いていた。いけない、とマチは強いて顔を上げる。その視線の先に、木々の幹とは違った種類の、茶色のものが見える。
鹿だ。足跡をトレースした訳ではないが、進む先の斜面に一頭の鹿がいた。角がある。単独行動をしているオスの鹿だった。
鹿は斜面に生えている針葉樹(しんようじゅ)の幹に頭をこすりつけていた。育ちきった大きな角がそのたびに大きく揺れている。
マチは何も考えずに銃を構えた。鹿がこちらに気付いていないのか、それとも一人の人間ごときを恐れていないのかは分からない。ただ、マチにとっては撃たない理由がない。自分は、このために一人で山に入ったのだ。
直線距離で六十メートルを切るぐらい。周囲には立ち木。幸い、木の枝ぐらいしか遮るものはないがクリアとは言い難い。
獲物を狙う時は、仕留める確率が高くなるよう心を砕く。姿勢、集中、角度、タイミング。それでも弾がそれたり逃げられたりすることは普通にある。
もしここに新田が同行していたら。マチは特に何も聞かず、「撃ちます」と宣言して新田の無言の同意を得るだろう。今日はそれがない。自分の判断で撃つしかないのだ。
マチは息を殺し、無駄のない動きで雪の上に膝を立てた。スコープを覗く。鹿は首を幹にこすりつけている。大柄なせいか、木全体がゆさゆさと揺れていた。
パン。
スコープの向こうで、鹿の体が弾けたように震える。そのまま、ぐらりと体を倒して地面に転がった。ゆるい斜面をずるずると滑り、途中で止まる。
よかった。当たった。マチは散弾銃を肩にかけ直すと、鹿が横たわった斜面に向かって歩いた。急(せ)いてペースが乱れ、転びそうになる。それでも、一発でうまく当てられた、という純粋な喜びがマチの足を急かせていた。
鹿はまだ息があった。正面側から首と肩口に弾が入ったらしい。角があって近づくと危ないので、確実に頭に入る距離からとどめの一発を入れる。完全に死んだことを確認してから、マチは鹿に近づいた。
雪の斜面に、鹿が滑り落ちた跡と血の筋がついている。そして、死体の首と頭のあたりから雪に血が滲みていった。雪、木と鹿の茶色、青空。マチによって景色に赤い色が足された。
マチは放血(ほうけつ)も忘れて、鹿の体を見下ろしていた。
ずいぶん遠くまで来たな。そう思った。望んでハンターになって、未熟ながらに技術と経験を蓄積してきた。
そして今、一人で鹿の命を奪い、ここでその亡骸と向かい合っている。
決して後悔とか、悲しいとかいうネガティブな感情ではない。けれど、狩猟を知らないままの自分が着いたであろう場所から、今の私はずいぶん遠いところにいる。マチの右肩で、使い慣れてきた銃が重みを増した。
「孤独」
考えるよりも先に唇が答えを紡いで、マチの中でパズルのピースがはまる。これが、そうか。一人で猟に出ることの、一番大きな意味がこれらしかった。