夜明けのハントレス 第29回 河﨑 秋子 2025/03/27

【前回までのあらすじ】狩猟免許を取得したマチは、初めて一人で入った山でクマを仕留めるが、痩せたクマを撃ったことを後悔していた。猟友会会長の新田にその経験をリセットしたほうがよいと言われ、再びアヤばあを訪ねたマチ。あらためて山に入り、自分が一人で猟に出る意味を確認する。やがて大学を卒業しアウトドア用品販売会社に入社。新入社員恒例の登山研修へ。

 よく眠れず、寝起き(ねおき)の気分は最悪。そうであったならば、自分も『可愛げ(かわいげ)のある女』と思われて要らぬ陰口(かげぐち)を叩かれることもなかったのだろうか。

 マチはそんなことを考えながら、山小屋(やまごや)の一室で身を起こした。よく眠った。頭も体もすっきりしている。小さな窓から入ってくる朝日に目が慣れると、同僚の女性二人のシュラフ(ね‐ぶくろ【寝袋】)が傍らに横たわっているのが見えた。夜の語らいの後、何時に就寝したのかは分からないが、ちゃんと眠れているようだ。マチは大きな音を立てないように気を付けながらシュラフから出て、身支度を整えた。

 イヤープラグを外すと、水瀬(みずせ)が大きないびきをかいているのが聞こえた。ガガ、ゴゴッという喉と鼻の奥を鳴らすような音に続いて、次のいびきまで妙な静寂(せい‐じゃく)がある。睡眠時無呼吸症候群とか、大丈夫なのか。水瀬が起きたらさりげなく専門医の受診を勧めた方がいいだろうか。

 そこまで考えて、マチは考えを振り切るように長い髪をかき上げた。

 やめよう。余計な気を回したこともあって彼女らから疎まれた(うとまれた)のだろうから、深く踏み込まない方がお互いにいいはずだ。気を取り直して、髪を後ろで一つに結んだ。いつもよりもきつく。襟足とこめかみの皮膚が引っ張られるぐらいが、今の自分には心地がよかった。

 音を立てないようにそっとドアを開け隣の広間に入ると、先輩社員の織田がテーブルの上に散らばった(ちらばった)ゴミを片付けているところだった。誰が持ち込んだのか、スナック菓子の袋やチューハイの缶まである。マチは慌てて駆け寄った。

「おはようございます。すみません、織田さんに後片付けさせて」

 小声で挨拶と謝罪をすると、織田は苦笑いをして首を横に振った。

「おはよう。岸谷さんは早くに寝てたでしょ。別にいいよ」

 自分の仕業ではなくとも、新入社員全員の連帯責任というものはある。マチにしても、皆と足並みを揃えず先に寝てしまったという負い目があるので、無言で片付けを手伝った。

「まだみんな起きないから、ちょっと外出ない?」

 促されて、山小屋の外に出る。ちょうど、雲海(うんかい)の上に太陽が昇り始めていた。世界が柔らかい橙色一色(だいだいいろいっしょく)に染まっている。風がないせいで、空気の冷たさが頬を刺した。それさえも心地がいい。マチは両手を大きく上へ伸ばし、上体を左右に傾けた。狩猟とはまた違う心地よさがある。

「コーヒー飲む?」

 織田はいつの間にか持ってきていたバーナーとコーヒーセットを組み立てていた。

「ありがとうございます。頂きます」

「中の部屋だと、寝床まで結構声響くからさ」

 織田は何でもないことのようにコーヒーフィルターに粉を入れている。きっと、昨夜彼らがマチについて語っていた内容は男性部屋の織田の耳にも届いていたのだろう。

 マチは何も言わずに傍(かたわら)の岩に腰かけた。今さら、他の人間の陰口(かげぐち)に傷つきもしないのだと、その態度を崩さないでいることが最適解(さいてきかい)だと思った。

 火にかけられたメスティン(Mestin)の中で水が泡を立て始める。織田は手早くシェラカップにコーヒーを落とし、それをもう一つのカップに分けた。

「ブラックでいい?」

「はい。ありがとうございます」

 熱くて、少し濃い目のブラックコーヒーはおいしかった。マチは「おいしい」と素直に呟く。織田は満足そうに頷いた。

「たまに人と飲むのもいいもんだ」

「織田さんは、山に登る時はいつもお一人で?」

「まあ、趣味で登る時は大抵一人かな。今回みたいに仕事で登る時は人と一緒のことが多いけど、こうやって早朝にこっそり淹れたりして孤独(こどく)チャレンジしてる」

「孤独チャレンジ」

 その言葉が何かおかしくて、マチはふふと笑った。織田はシェラカップから伝った雫が顎髭についたのか、袖でぬぐっている。

「岸谷さんは、学生時代にハンターの資格とったんだっけ」

「はい」

 織田の何気ない問いかけに合わせるように、マチは軽く応えた。

「まだ経験浅いし、未熟者ですけど」

「いやいや。聞いたよ、クマ撃ったこともあるって?」

「あー……」

 知られちゃってたか、とマチは大げさに天を仰いだ。就活の際、履歴書の資格欄に正直に銃砲所持許可と狩猟免許のことを書いたために、研修などで社員からそのことを話題にされることが多かった。

 大抵は、いつもどのあたりで何を撃っているのか、などと問われて「先輩ハンターたちと一緒に札幌近郊で鹿を少々」などと答えれば満足してもらえた。

 だが、懇親会で少しくだけた役員が「クマとか撃ったことある?」と素直に過ぎる質問をしてきたので、馬鹿正直に「はい」と答えてしまったのだ。結局、その答えをその役員や会社側がどう捉えたのかは分からない。とはいえ、織田は、そのことを伝え聞いたに違いなかった。

「ごめんな。たぶん察してるとは思うけど、俺は君ら新入社員の配属について助言する立場だから、人事から諸々の情報聞いてるんで」

 申し訳なさそうに言う織田に、マチは「いえ」と首を横に振った。

「クマを撃ったのは事実ではあるんですけど。あれは……なんというか、自分の未熟さを却って思い知らされた一件なので。黒歴史とまではいかなくても、グレー歴史というか」

「グレー歴史、っていうと?」

 織田は心なしか前のめりになった。これは話さないと終わらないやつだな、とマチは観念し、あの時の一部始終と、自分の心の動きを語った。

 試しに一人で猟に出たところ、弱ったクマと出くわしたこと。撃たざるを得ない状況と信じて仕留めたが、他に選択肢はなかったか後悔したこと。先輩らにはフォローされたが、今も自分の中では蟠り(わだかまり)が残っていること、など。

 織田は言葉を挟まずにただずっと耳を傾けてくれていた。マチは語り切ってから、後悔の念にかられる。ハンターではない他の分野のスペシャリストに一方的に話す内容としては、幼すぎる懺悔(ざんげ)だったかもしれない。

「まああれだ」

 そう言うと織田はがしがしと頭をかいた。

「同じだなーって、思った。今の聞いて」

「同じというと」

 織田の意外な反応(はんおう)に、マチは問いかえした。

「同じにすんなって言われるかもしれないけど、俺ら山屋(やまや)もさ、年季入ってれば入ってるほど、黒歴史もグレー歴史もマダラ歴史もそれなりに抱えてるのよ」

「マダラ歴史」

 意図が読めない。白でもあり黒でもあるということか。織田は片手で顔をごしごしとこすった。耳と頬が赤い。

「今でこそ俺も会社員として山関連の仕事させてもらってるけどさ。若い頃は自分の身の丈も弁えず(わきまえず)に無茶して危ない目に遭ったり(あったり)、人に迷惑かけたこともあるわけよ」

「まあ……それは……そうなんですか」

 マチは登山(とざん)の世界には明るくない。かつて夢中になったトレイルランは登頂(とちょう)はあまり関係なかった。ストイックに山で体を動かすという点は同じでも、まったく別物のスポーツ。そんな印象だった。だから、織田がこれまで経験した苦労もぼんやりとした想像しかできない。

「最初は山岳会に所属してたんだけど、色々思うところあって単独で登るようになって。思い出したくないやらかしは、一人の時の方が圧倒的に多いな」

「そうなんですか」

 単独登山と、単独猟。独りで、己の感覚と判断だけを頼りに自然と関わりあう。方向性も技術も異なるけれど、根っこの部分は同じなような気がした。

「岸谷さんも、これから一人でやってくの」

「……そうですね」

 グループ猟も、単独猟も、これからどちらもやっていくつもりではある。それは新田にも了承を得ている。しかし。

「気持ちとしては、単独猟のほうに興味があるのかもしれません。興味、というか、熱意を向ける対象、というか」

「軸足(じくあし)を置く側ってこと?」

「そう、ですね、はい」

 思わぬタイミングで織田に言葉をもらい、マチの中ですんなりと意味が通った。軸足を置く。両足で立ちながらも、軸足がどちらかは決めておいた方が立ち回りはしやすい。

「もちろん仕事を頑張りながら、単独猟に軸足を置いていきたい、です」

 織田への説明であり、マチ自身への宣言でもあった。

「いいね、とてもいい」

 織田は手を組むと、くつくつと笑った。言葉とは裏腹に、会社員の評価としてどう判じられる(はんじられる)のかが見えず、マチは素直に頷けなかった。せっかく就職し社会人になったのだ。趣味である狩猟へのスタンスのせいで社員としての評価を下げられる(さげられる)のは本意ではない。

「ああ違う、本当にいいと思ってるよ。悪いな、俺が人事に関わってるとなると、何やっても言っても心配させちまうな」

 マチの不安は顔に出ていたのか、織田は慌てて言い足した。

「どうせ今、就業時間外だし」

「……そんなもんですかね」

 マチは信用しなかった。九時から十七時の間だけが就業時間なら、昨日の同期たちの言動は人事に影響しないということになる。それがいいことか悪いことかは分からないが。

 織田はバーナーを片付けながら、「まあ、あんま心配しなくていいよ」と軽い口調(くちょう)で言った。

「俺の方針としては、人の長所だけを見定めることにしてるからさ」

「……ありがとうございます」

 マチは頭を下げた。底の見えない人だが、ひとまず信用することにした。どうせ悪い評価を受けたとしても、どこへ配属になったとしても、自分なりに頑張ることしかできないのだ。

「あの。聞いてもいいですか」

「ん。何?」

 開き直りついでに、ごく自然に浮かんだ疑問を好奇心だけで尋ねてみる。

「登山する時で、一番感情が動くのって、登頂した時でしょうか」

「うん、まあ。それが登山の要素の全てではないけど、その瞬間の感動ってのは、やっぱり大きいかな」

「じゃ、パーティで登った時と、一人で登った時って、何か違いはありますか」

 織田は顎髭のあたりに手をやり、たっぷり三十秒は考え込んだ。視線を空にやり、地にやり、瞼を閉じて少しして、「俺の場合だけど」という前置きの後、言葉を選びながら続けた。

「人と一緒だと、成功の共有とか、達成できたとか、安堵が大きいかな」

「一人だと?」

「ざまあみろ、って思う」

 織田の目は真剣だった。

「登頂した喜びも、同時に感じる、ここに独りだっていう寂しさも全部が全部、手前の心も体も何もかも俺だけのもんだ、ざまあみろって、そう思った」

「ざまあみろ」

 マチにはすとんとその言葉が理解できた。さすがにこういう言葉としてではなかったが、アヤばあの山で雄鹿を仕留めた時の、冷たい炎が燃えるようなあの孤独は、同じ『ざまあみろ』なのかもしれない。

「わかるようなわからないような、でもわかるような」

「どっちなのよ」

 織田はふっと笑うと、思考の沼に入りかけたマチを起こすようにパン、と両手を叩いた。

「そろそろいい時間だから、連中、起こすぞ。他の奴らの分はコーヒーないから、内緒な」

「はい」

 織田はコーヒー道具一式を持って、小屋(こや)へと戻っていった。マチも少し時間を置いてから帰るつもりで、その場で足を開いて腰を落とした。太腿(ふともも)の裏と前面に適度な刺激が入る。最終日こそ気を緩めることなく、元気で帰らなくてはならない。色々考えるのは、今じゃなくてもいい。

 配属の希望はこの研修の後に出すことになっている。マチは長距離走とトレイルランの経験を活かして、第一希望をランニングシューズに特化した中央店の販売部、第二希望をメーカーとのコラボ等を扱う企画部で提出するつもりでいる。

 織田は、人の長所を見ると言った。だとすると、自分にはどういう判断が下されるだろう。

「やっぱ喋りすぎたかな」

 小屋に戻る前に、マチは一人ごちた。織田の淹れてくれたコーヒーは後味(あとあじ)がやたら苦かった。

 それから一週間後。札幌郊外にある会社本部の事務室で、新入社員の配属が告げられた。

 岸谷万智。宮の森店、販売部。

 人事担当に告げられた時、マチは思わず「え」と声に出しそうになった。宮の森店は道内に数ある店舗の中でも二番目に古い支店で、店舗面積も売り上げ金額もトップだ。配属希望者も多い。

 さらに、登山関連に特化したコーナーが広く、織田が副店長を務める店でもあった。

 視界の端で、同期の男子二名が険しい視線をマチに送っているのが見えた。登山関係の部活をしていた彼らなら宮の森店に配属されたかったであろうことは想像がつく。

 辞令の書面を受け取り、振り返ると、水瀬が手の中にある自分の辞令を睨みつけていた。どうも、自分の希望とは異なる配属となったらしい。

 織田は、人事部に何を助言したというのか。近い将来、直属の上司になるであろう彼に、問い詰める機会はあるだろうかと思いながら、マチは靴の踵(きびす)を鳴らして自分の椅子に戻った。