夜明けのハントレス 第30回 河﨑 秋子 2025/04/03

【前回までのあらすじ】狩猟免許を取得したマチは初めて一人で入った山でクマを仕留めるが、痩せたクマを撃ったことを後悔していた。猟友会会長の新田にその経験をリセットしたほうがよいと言われ、再びアヤばあを訪ねたマチ。あらためて山に入り、自分が一人で猟に出る意味を確認する。やがて大学を卒業しアウトドア用品販売会社に就職、人気店舗の販売部に配属される。

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 春の登山研修から約半年。マチは配属された宮の森店での販売業務に勤しんで(いそしんべ)いた。

「あのすんません、この商品探してるんですけど、扱いありますか」

 店内を長いこと見ていた中年男性に声をかけられて、マチは「はい」と慌てて対応した。見せられたスマホの画面には、海外アウトドアメーカーの青い登山用ザックが映っている。

「色はできれば青があればいいんだけど」

「はい、ただ今データから確認しますね。少々お待ちください」

 マチはエプロンのポケットから専用端末を出して型番(かたばん)を打ち込んだ。調べている間も感じのいい微笑みを意識しながら、その内心ではしまった、と軽く後悔していた。ゆっくり店内の商品を見て、気に入ったものがあれば購入するという客だと思い込んでいたのだ。スマホを見ていたのなら、「何かお探しですか」と声かけをすべきだった。

 マチは接客自体は嫌いではない。学生時代に働いていたジムでは会員と会話をしながら運動するのが普通だったし、もともと人と話すこと自体も好きだ。

 だが、販売業のコミュニケーションというものは求められるレベルが違った。特にこの店舗(てんぽ)では、商品管理やレジ打ちだけではなく、客に求められれば専門性の高いギアの説明もしなければならない。

 マチなりにより良い接客を、と気を付けてはいるのだが、今回のように思い込みから判断を誤るようなことがあると、まだまだだなあ、とそれなりに落ち込むのだった。

 こういう時、えみりだったらどうしただろう。マチはつい学生時代の友人の笑顔を思い出す。彼女のバイト先であるカフェは客とのコミュニケーションも大事な仕事の一つだった。わざとらしくない笑顔も上手で、明るく、かつ相手との距離を一定に保つことに長けていた。なかなか自分は同じようにできそうにない。

「お疲れさん」

「あ、お疲れ様です」

 さっきの客に希望のザックを無事に販売し終えたところで、副店長である織田が声をかけてきた。

「さっきのお客さん、よかったね。探してるザックがあって」

「はい、でも、お探しだったならこちらからお声がけすべきだったと反省してます」

「うん、まあ、いいんじゃない?」

 素直に自分の非を吐露(とろ)したつもりが、あっさりと流されてマチは拍子抜けした。別にいい、というより、どうでもいい、と言われたような気がした。

 マチの心中に構わず、織田はレジに連動したタブレットの画面を表示した。客の会員カードをもとにした購入履歴が並んでいる。

「さっきのお客さん、三年前に会員になってから、ボーナス時期ごとに少し大きめの買い物してるよね。しかも、エントリーモデルの安価(あんか)な商品から、徐々に高価なものに買い替えてる。ザックも容量増やしてさ」

「あ、……本当ですね」

「ちゃんと登山にはまってくれてるってことだと思うよ。今回のザックも値段いいけどそのぶん機能もいいやつだし。そんな時期って、欲しいの買ってはい終わり、じゃなくて、探し物しつつ商品を目に入れるのが楽しいんだよ」

「そうですね。……はい、その通りだと思います」

 マチも自分のことを顧みれば覚えがあった。狩猟にはまりたての時期は、堀井銃砲店で買う予定以外の銃や道具を眺めているだけで楽しかった。

「だからまあ、もっと自分がああしてれば、自分が声かけてれば、って反省するのも大事だけど、お客さんに萎縮せずにまた足を運んでもらえるような、気軽な雰囲気作りも必要だよ」

「はい」

 織田に、叱責ではないがやや鋭い声で言われて、マチはさっきとは違った意味で反省していた。つい、もっとちゃんとできるようにと勇み足(いさみあし)を踏んでいたのかもしれない。「自分がより良く」「自分が成長して」、何でもかんでも自分自分、では客もその雰囲気を感じてしらけてしまうことだろう。彼らは気分よく買い物をしたいのであって、スタッフに反省や向上を促すために来ているのではないのだ。

「ま、店の売り上げを考えると、俺なら『サイズの合う防水カバーもいかがですか、軽量だし一枚あるだけで荒天時(こうてんじ)も安心できますよ』とセールスするかな」

「ああ……すみません」

 まったくもってそうすべきだった。頑張れよ、と気楽に言ってバックヤードに向かう織田に、マチは頭を下げた。

「ふう……」

 マチは自分のベッドに横になると大きく息を吐いた。目を閉じればこのまま眠ってしまいそうだが、そういう訳にもいかない。起き上がり、ドレッサーに向かい基礎化粧品を顔に塗り込んだ。日中、長時間を過ごす店舗内は乾燥気味なため、風呂上がりの肌の手入れを欠かすと大変なことになる。学生時代よりもさらに薄めで肌の疲れをカバーできるメイクを心がけている分、ケア次第で印象が変わってしまうのだ。面倒だが必要なことだ。

 時間はもう夜十時を回っていた。明日は早番シフトなので早く出社しなければならない。帰りは毎日だいたい夜八時を回るので、食事をして風呂に入り、少しゆっくりしたらもうこんな時間だ。極端な残業や休日返上などのブラックな勤務ではないが、学生時代の、曜日と講義次第でスキマ時間ができる生活とは大きく様変わりしていた。

 マチは今度こそベッドにもぐりこむと、スウェットのポケットに入れていたスマホを出した。LINEの通知数が三桁(けた)に届いている。そのほとんどが狩猟関連のグループチャットのものだ。通知音を切っているので、ここまで活発なことに気がつかなかった。

 九月も半ばとなり、道内の早いところではエゾシカの狩猟シーズンが始まっている。たぶん、シーズン開始でいち早く成果を上げた人たちの報告と、その祝福が主なのだろう。グループのページを開くと、予想通り、横たわった鹿やその体を囲んだ集合写真が表示されている。背景の山は黄色と赤色。山中は一足先(いっそくさき)に秋まっさかりらしい。

「いいなー」

 素直にマチは思った。

 自分はまだシーズン初の猟に行く予定が立てられていない。新田と熊野が誘ってくれたが、時期は店のセールと重なり、とても休めそうにない。

 マチはスマホを持っている腕をパタリと落とすと、照明も消さないまま瞼を閉じた。体力はまだ残っている。しかし頭が疲れていた。

 明日の予定、今日の客とのやりとりのこと、そして織田と話した内容がぼんやりと渦を巻く。

 向上心はある方だと自分では思っている。だから狩猟に興味を持ち始めた時は、意欲的に情報を集めたし機会があれば新田に猟を見せてもらいに行ったりもした。

 だから、仕事で接することになった山岳関係やアウトドアの専門的な内容について学ぶことは嫌ではないのだ。興味深いと思う。しかし、実際に手を出さない分野のことに精通するには単に知識欲だけでは足りない。もっと意識的に勉強しなければならない。最近は、休日も図書館に通って専門書を借り、読みふけっていた。

 ただ、新人の販売部員なのだから、客から専門的なアドバイスを求められた際は完璧に応えなければ、という訳ではない。分からなければ織田や先輩店員に聞けばいいし、そう推奨されてもいる。でも、できるだけ人に迷惑をかけないように、自分が一人前になれるように、とつい考えてしまう。

「それが、いけないのかも」

 マチは瞼を閉じたまま呟いた。考えすぎるのが、私は良くないのかもしれない。まさに昼、織田から注意を受けたことだ。

 学生ではなくなった。社会人となった。知らず知らずのうちに内省をエクスキューズにしていることが許される時期は、終わったのかもしれない。

「だめだ。私、弱ってる」

 マチは珍しく自覚的になるほど弱っていた。

「ああ、猟行きたい……」

 こういう時は願望がするりと言葉になる。週末は特に店舗が混むため、休みは平日が中心となる。知人のハンター達とタイミングを合わせづらい。グループチャットで見たような紅葉まっさかりの山の中で、脂肪を蓄えつつある鹿を仕留められたなら、どれだけ楽しいだろう。

 ちゃんと加工場に運んで精肉にしてもいいけれど、店舗で扱っているBBQグリルとしても使える焚き火台でミニサイズのいいのを見つけたので、塊肉を炙るのもいい。塩こしょうだけでもきっと美味しい。

 新田や熊野や、馴染みのメンバーと一緒でもいいし、一人でひっそり行っても楽しいかもしれない。

「そうか」

 諦めを含んだ思い付きだったが、想像してみると不可能ではない。マチは思い立って身を起し、バッグに入れていたスケジュール帳を開いた。

 十月の第二水曜日。マチは三笠のアヤばあの家にいた。電話で猟に入りたい旨を伝えたところ、快く応じてくれた。マチは火曜日の夜に帰宅すると、すぐに猟銃を車に積み込んでアヤばあの家に向かい、泊まったのだった。

 先週の休みには、久々に射撃場に行ってスコープの調整を行い、堀井銃砲店で銃弾を購入してきた。久々に店に顔を見せたマチを、店主とお婆さんは喜んで迎えてくれた。マチも、久々に仕事関係ではない知人の顔を見て、随分とほっとした。環境の変化でしばらく猟から離れていても、手放してしまったわけではない。昨夜マチを迎え入れてくれたアヤばあの笑顔にも、同じ心強さを感じられた。

 三笠の早朝は空気がひんやりと冷えていた。雲ひとつない冴え冴えとした青空と、色を変え始めた木々のコントラストが美しい。

「寒いけど、晴れてよかったねえ。鹿撃ち日和だ」

 空を仰いだアヤばあが目を細めた。

「本当に、晴れてよかった」

 マチは両拳を天に向けるようにして全身を伸ばした。深呼吸し、肺の空気を意識して入れ替え、新しい酸素が体の隅々まで届くところをイメージする。

「アヤばあさんは、解禁になってからもう行ったんですか?」

「うん、先週ね。つっても、夜明け前に一人でひょいっと入って、鹿の群れ近くで太陽さん昇るの待って、時間になったらズドン。簡単すぎて、撃つってほどのもんでもないかねえ」

 本当に簡単なことのようにアヤばあは笑った。マチも微笑んで応じたが、実際はそれほど簡単なものではない。暗闇の中で山に入り、照明もない薄明りで鹿を見つけ、夜明けまで気づかれずに息を潜めるとは。そんなことをいとも簡単に為せるこの小さなお婆さんを、マチは改めて凄いと思った。凄いというか、凄まじい。

「猟場が近いと、明け方前に山に入っておけるから、いいですね」

「まあねえ。効率的にもそうだけど、何より、楽しいよ」

「楽しい?」

 マチの疑問に、アヤばあは頷きながら山に視線を向けた。

「今の鉄砲撃ちって、日の出前と日没後は撃っちゃダメでしょ。だから大抵、太陽さんが沈むと猟は終わり、って残念になる。でも、日の出前は、もうちょっと待てば撃っていい、やっと始まる、って楽しいもんさ」

「楽しい……」

 アヤばあの目は、山の、奥の奥へと向けられているようだった。慈愛でも愛情でもない、狩場とまだ見ぬ獲物に向けられた鋭い眼差し。

「あと、山の中で一日が始まるのをボーッと待ってるのって、なかなか良いもんだよ」

「確かに」

 ボーッと、というところに特に共感をもってマチは笑った。いつか、そんな猟をやってみるのも楽しいかもしれない。

「おにぎり、でかいの三個握ったから。食べられんかったら、後で焼きおにぎりにしちゃるからね」

「ありがとうございます」

 アヤばあはずっしりとした包みを渡してくれた。それをザックに入れて愛用の銃を背負い、一人で裏山へと歩き出したマチの背中に、「そういえば、ねえ!」とアヤばあが言う。

「鹿、獲れなそうな時は、さっさと諦めて帰ってきなさいね」

 アヤばあはにこにこしながら言った。腕も勘も鈍らせたつもりはないが、久々の猟でイメージ通りに鹿を撃てないということはあり得る。だが、できればちゃんと仕留めて、自分は大丈夫なのだと認識して帰りたい。

「ええ、でも頑張ります」

「だーめ」

 むずかる子どもを諭すように、アヤばあは首を横に振った。

「仕留められんくても、大丈夫だから。ここでダメだったって経験しても、後でちゃんと撃てるようになるから大丈夫だよ。心配するんでない」

「……はい」

 まるで幼子に言い含めるように諭されて、マチは頷いた。確かに、今回望ましい成果が出なかったとして、それを引きずることを今から恐れていても仕方がない。

「何も見つけられんくても、仕留められんくても、山の中でボーッとして、ちゃんと帰ってくれば鉄砲撃ちは百点だと思っときな」

「はいっ」

 ボーッとして、でもちゃんと帰ってくる。そして、食べきれなかったおにぎりを焼いてもらう。今の自分にはそれぐらいでもいいのかもしれないな、とマチは思った。絶対に撃つ、という意欲に水を差されたにもかかわらず心は穏やかで、やっと帰ってきた、という気がした。