夜明けのハントレス 第33回 河﨑 秋子 2025/04/24

【前回までのあらすじ】大学を卒業し、就職して約半年。マチは三笠のアヤばあを訪ね、シーズン初の猟へ出る。山から戻るとアヤばあの家に人が来ており、山で夫婦がクマに襲われたと通報があったという。マチは、山で夫婦とすれ違っていた。そこへ、なぜか三石勇吾(みついしゆうご)も現れる。救助隊が夫婦を捜索することになり、アヤばあも同行。マチと三石は家で留守番することに。

 古い壁かけ時計が夜の七時を指した。マチと勇吾は、アヤばあの家の茶の間で、まんじりともせずに(not sleeping a wink)連絡を待っていた。

 事故の情報が出るには早いだろうが、何となくつけっぱなしにしたテレビのニュースは、関東の秋のお祭りを映している。呑気で華やかな光景に、勇吾がわざとらしくフン、と鼻を鳴らした。

「三石さんは、どちらのご出身なんですか」

 別に積極的に聞きたい訳ではないが、マチは気まずい空気を断ち切るためだけに質問をした。

「東京の、……二十三区じゃないから、言ってもわからんだろうな。東京っつっても、西の、山に近いほうだ」

「そうなんですか」

 意外、とは思わなかった。勇吾の喋り言葉には北海道のイントネーションは感じなかったし、知り合いの先輩ハンターたちの中にも、本州からアウトドアや狩猟のために移住したという人が何人かいる。そして、そういう人たちは往々にして熱心な場合が多い、という印象があった。

「伯父がそこで農家やりながら猟師してて、自分もやることにした。どうせなら広い北海道でと思って」

 マチは頷きながら勇吾の話に耳を傾けていた。意外と口数(くちかず)多く、端的に説明をしてくれる。きっと同じことを何度も聞かれてきたのだろう。

「アヤばあさんがさっき言ってましたけど、春から三笠に?」

「ああ」

 勇吾は面倒くさそうにテレビに視線をやりながら答えた。

「俺は、クマ撃つのが目標だ。札幌より、クマの多い場所に移ることにした。それだけだ」

 ニュースは海外のテロ事件について報じていた。それを目で追っている勇吾の奥にある真意は、マチには想像できなかった。だから聞く。

「前、雪のある時に山で会ったのは、冬眠中のクマを狙うためですか」

 勇吾は答えなかった。肯定と捉えて、マチは悟られない程度に息を吐く。冬眠中のクマを狙う狩猟法もあるにはあるが、新田から聞く限り、一人で挑む(いどむ)ようなものではない。無謀だ。そう考えた時、マチの頭の中で情報が乱れた。

「あれっ。でもそういえば……」

「何だ」

 ふとマチの口からもれた言葉に勇吾が反応した。

「そのクマ、どこ行ったんですかね。今回、私が山に入るときも、アヤばあさんは今この辺にクマはいないって言って送り出してくれたんです。例のご夫婦も、クマは出ないけど一応クマ鈴つけてたって」

 なら、冬眠していたクマはどこに行ったのだろう。真剣に考えていると、勇吾がはあ、とわざとらしい溜息を吐いた。

「移動」

「移動?」

「佐藤の婆さんの話だと、例の冬眠のクマは、起きたら南に移動するんだとよ。で、冬眠の直前に毎年こっちに戻る」

「そうなんですか。でも、なんでわざわざ南に行くんでしょう。ナラの木もコクワの木もあるのに」

 事故に遭った夫婦が探していたように、この辺りにはコクワもあるし、ドングリがなるナラ林もある。

「知らねえよ。クマに聞け」

 吐き捨てるような勇吾の言い方に、さすがにマチの心も苛立つ。意見や主張をするにしても、言葉の選び方ってものがあるだろう。

 勇吾はマチの表情が険しくなったことも気にかけず、自分の掌をとんとんと叩いた。完全に、話し相手には頓着せず考えに浸っている。

「……可能性としては、佐藤の婆さんや、この辺のハンターや、お前みたいな婆さんの知り合いがしょっちゅう鹿撃ちに入るから、だな」

 お前呼ばわりはともかくとして、マチはなるほど、と納得した。この辺りの山林は広いとはいえ、鹿撃ち目的のハンターがしょっちゅう入っていれば、クマとしては警戒する。こちらの納得をよそに、勇吾は苦々しそうに舌打ちした。

「ねぐらがあるからこの辺に移住したってのに。これなら南の夕張か栗山にしておくんだった」

「そちらも検討してたんですね」

「ああ。だが、畑作農家が多くて車の乗り入れに文句つけてきたり、猟友会の連中と水が合わなかったから、やめて正解だった」

 勝手なことに勇吾は相手を悪しざまに言っていたが、マチはそれを言葉通りには受け取らなかった。想像にすぎないが、この男の様子からみるに、勝手な言動で当地の人たちの顰蹙を買い(ひんしゅくをかい)、移住どころではなくなったのでは、と思う。

 面倒見のいいアヤばあが、クマが去っていることを言わずに移住の取りなしをしたのかもしれない。そう考えると、いい年をして手前勝手な勇吾に留守番まで任せているアヤばあの懐の深さに、感じ入るやら呆れるやらだ。

「銃、メンテナンスに出してたの、残念でしたね」

 マチの言葉は本心からだった。人間同士での軋轢(あつれき)はどうあれ、クマを撃ちたい、という勇吾の願望の強さは間違いない。

「ああ」

 テレビ画面に顔を向けながら、勇吾は自分のスマホを強く握りしめていた。

「他から追い込まれてきたにせよ、俺がさっさと見つけて仕留めておけば、怪我させることにならなかったのに」

 勇吾の怒りと後悔。その範囲内にはあの夫婦、つまりは地元の人が含まれている。マチは下を向いた。たぶん、今捜索に出ているアヤばあも、似た結論と後悔を抱いているはずだ。山で会ったあの時までにクマの気配に気づいていれば、というマチの悔恨(かいこん)とも根を同じくする。

 マチは立ち上がり、茶の間と続きになっている台所へ向かった。壁にかけてあったアヤばあの割烹着(かっぽうぎ)を借りて、腕を通す。

「何してる」

「みんなが帰ってきた時のために、おにぎりと、豚汁でも作っておこうと思いまして」

 質問したのは勇吾で、こちらはちゃんと答えたというのに、「は?」と呆れたような返事が戻ってくる。

「お嬢さんはよく気がつくことだねえ」

 誉めの響きが一切ない皮肉を迎え撃つように、マチはわざと足音を立てて茶の間に戻った。テレビを見ている勇吾の横に立ち、腰に手を当てる。

「自分が逆の立場だったら、疲れて帰ってきた時、すぐお腹に詰め込めるものと温かい汁ものがあると嬉しいだろうなと思っただけです」

 言葉を継げないでいる勇吾を無視して台所へと戻る。手を動かし、しかし口は閉じない。

「男だろうが女だろうが関係ないです。やれるからやるだけで。やれないより、やれる方がいいでしょう」

 威張り腐って嫌味(いやみ)ばかり言う人間より、頭と体をフル活用して何か役に立つことができる自分の方がまだましだ。

 茶の間から男の反論がやって来ないので、マチは作業を開始した。まず、米を研ぐ(とぐ)。それから冷蔵庫と保管棚に何があるかを確認した。人参、玉ねぎ、長ねぎ、じゃがいも、ゴボウ。冷凍庫にラップで小分け(こわけ)にした豚こまがあったので、電子レンジで解凍する。

 野菜を洗い、皮をむき、切り、下処理をする。人のお勝手は使い勝手がよく分からないものだが、アヤばあの台所はよく使う道具は手を伸ばせばすぐ届く位置に置かれており、作業が滞る(とどこおる)ことはない。菜切り包丁(なきりぼうちょう)も文化包丁(ぶんかぼうちょう)もよく研がれていた。

 だん、だんと根菜(こんさい)を切りながら、マチは下唇を噛んだ。ただ知らせを待つより、手を動かしていた方が不安が紛れる(まぎれる)のだ。無事を祈るなら、体を動かしながらがいい。

 やがて米が炊き上がり、鍋から味噌の匂いが立ち上のぼった。おにぎりに入れる梅干しとおかか( chopped katsuobushi,)の用意をしていると、ふいに茶の間の方から電子音がした。

 マチが弾かれたように茶の間に行くと、勇吾が立ち上がってスマホで誰かと会話をしている。スピーカー通話にもしていないのに向こうから漏れる大きな声は、アヤばあのものらしかった。勇吾の表情は固い。マチも思わず固唾( かたず)をのんだ。

「ああ、分かった。……よかった」

 勇吾はマチの方を見ると、空いている左手を空中で迷わせた後、軽く親指を立てた。

 はーっと肺が勝手に安堵の息を吐いて、マチは思わずその場に膝をついた。勇吾が驚いた表情でこちらを見ているが構わない。詳細はわからないが、どうやら最悪の事態は免れたらしい。

「わかった。待機している。……じゃ」

 通話を切った勇吾は、マチと同じように深く息を吐くと、座布団にどさりと腰を下ろした。「どうでした」と急かす(せかす)マチに、自分も興奮を整理したいのか、額に手をやって目を閉じている。

「GPSから想定してた場所から少し離れた地点で、救助隊が夫婦を発見したそうだ。奥さんが腕をやられていて、意識はあるがその場から動けなくなった。旦那さんも、奥さんをその場に置いて助けを呼びに行くわけにもいかず、二人で体力を消耗(しょうもう、しょうこう)しないように動かず救助を待っていたそうだ」

 マチは床にぺたりと座り込んで目を閉じた。クマに襲われた直後に、また襲われる不安と戦いながら助けを待つのはどれだけ勇気のいることだったろう。ひとまず、二人とも生きていて、救助できたことに安堵(あんど)した。

「今さっき、二人とも救急車に乗ったところだ。救助隊も一時解散するから、もうすぐ帰るって、佐藤の婆さんが」

「よかった……」

 奥さんの方が怪我を負っている、という事実は重いが、ひとまず二人とも無事に助けだすことができた。クマも出ず、アヤばあも帰ってこられる。肩の力を抜くと、両腕がやけに重く感じた。かなり緊張していたことに気付き、マチは全身を震わせる。誰かの命が失われるかもしれない、という緊張に晒されるとは、こういうことなのだ。

「途中だろ」

 勇吾はそう言うと、台所へと向かった。

「あ、いえ、あとおにぎり握るだけなんで」

 マチが慌てて立ち上がって追うと、彼はすでに腕をまくって手を洗っている。

「あの婆さんなら夜でも飛ばしてすぐ帰ってくる。さっさとやっちまうぞ」

 そう言って、炊飯器のフタを開けた。マチもすぐに手を洗い、塩や海苔を用意した。

 そのまま、二人でおにぎりを握る流れになった。勇吾の手つきは手慣れていて、出来上がったおにぎりは下手をすればマチのそれよりも形が整っている。

「上手ですね」

「バイトしてたことがある」

 勇吾は短く応える間にも、米のかたまりをきゅっと形よく整えていく。マチは彼に対してなんとなく、料理ができなそうだという先入観を抱いていたことに気付いた。

 そのうえで、やれる人間がやるのだ、と啖呵を切った(たんかをきった)ことを思い出し、急に恥ずかしくなった。今さら弁明するのもためらわれ、結局、互いに黙々とおにぎりを握り続けるはめになった。

 炊いた米が全ておにぎりへと形を変えた頃、車のエンジン音が近づいてきた。マチは急いで手を洗い、玄関へと向かう。

「たーだいま。やー、いい匂いするわあ」

 銃の入ったバッグを担いだアヤばあは、笑顔だった。捜索で疲れた様子はない。むしろ、頬を上気させていた。

「おかえりなさい。無事でよかったです、ほんとに」

「やあー、まあね。奥さんの方の腕、たぶん入院して手術してってことになると思うけど、まあ生きててよかった」

 生きててよかった。普通の生活をしているとなかなか出くわさない言葉にマチは心から安堵した。夫婦も、捜索に入ったアヤばあも、命が脅かされずに済んで本当によかった。

 その後、装備を解いたアヤばあを中心に、三人で遅い夕食を摂った。

「あー、沁みる。豚汁もおにぎりも美味しいわ。ありがとね」

「材料、勝手に使わせてもらいました。お口に合ってよかったです」

 アヤばあの緊張が解けた笑顔を見て、作っておいてよかったとマチは思った。勇吾は黙々とおにぎりを齧り、豚汁をすすっている。自分で言い出さない限りは、彼もおにぎりを握ったのだとは言わない方がいいな、と判断した。

 アヤばあは二杯目の豚汁をひと口すすって、満面の笑みを見せている。上機嫌、というより、妙に高揚しているように見えた。

「いやほんと。鉄砲持って夜の山歩きなんてするもんじゃないね。クマが出たら、っていうのもそうなんだけど、もし見つけた要救助者がクマにやられながら、ってことを想定しながら山の真っ暗な中を歩くなんて、寿命が縮む(ちじむ)よ」

 あっははは、と笑うアヤばあに、マチは同調できなかった。捜索を、という話が出た時、少なからず自分も行きたい、行かねば、という気持ちはあった。実際にはその前にアヤばあに止められたわけだが、もし同行していたとしたら、自分は緊張に耐えられただろうか。

「まあ、鉄砲担いで(かついで)山に入る時点で、元々危ないっちゃ危ないんだけどさ」

 アヤばあはそう言うとおにぎりを齧った。形のよい、勇吾が握った方だった。

「それで、婆さん」

 勇吾が箸を置いて口を開いた。

「あんたの見立てでは、どうだった。今回のクマ、また出るか」

 アヤばあはおにぎりを飲み込むと、表情をきゅっと引き締めた。ぱちりと箸を置いて腕を組む。マチも思わず背筋を伸ばした。

「出る、と思う。撃っといた方がいい、と思う」

 勇吾が頷き終える前に、アヤばあは「ただし」と言葉を繋いだ。

「多分、この件、これからかなり揉める」

 その渋い表情に、さっきの高揚はかけらも残っていなかった。