河﨑 秋子 2024/09/12
夜明けのハントレス 第2回
【前回のあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家で狩猟雑誌をたまたま見つけ、手に取る。父は札幌に本社をおく会社の創業者一族で、母はスキーの元オリンピアン。恵まれた環境で育ち、陸上長距離から転向したトレイルランニング(trail running)も趣味で続けているが、なにか物足りなさを感じていたマチは、それまで見たことのなかった狩猟の世界に惹きつけられる。
「ふう」
午後の講義が終わり、マチはノートと教科書を手早く(てばやく) リュックにしまった。今日はインストラクターのバイトも休みだし、ヒマな旅行サークルの部室に顔を出す用事もない。夕方まるごと自由な時間だ。
マチが椅子から立ちあがろうとすると、隣の席にいた友人、えみりが腰のあたりをつついてきた。
「ねーマチ、今日なんかあるの?」
「ん? なに、どっか行く?」
買い物かお茶にでも誘ってくれるつもりなのだろうか。今日はちょっと都合が、と言おうとしたところで、えみりが「んーん」と首を横に振った。
「ただ、なんか予定あんのかなと思って。授業中、いつもより時計気にしてたように見えたからさー」
鋭い。マチは密かに感心した。おっとりした喋り方とやや派手な(はでな)服装のえみりは誤解されがちだが、頭の回転が速く、人をよく見ている。接客業のバイトで身につけたというよりは、性格だろうという気がする。マチはごまかすという選択肢を放り投げ(ほうりなげ)、「ちょっとね」と言葉を繋いだ。
「買い物いく用事があって。少し、探してるものが」
「ふーん」
えみりは友人の回答に特に興味はないような表情で腰を上げた。これこれを買いに行く、と具体的に品物を言わなければ、それ以上無理に聞き出そうとはしない友人の距離感がありがたいと思う。
「えみりはバイト?」
「うん。バイトチーフになったから時給あがったし、他の子が出らんない分のシフト詰めた」
「シフトって。前よりさらに?」
「うん」
えみりは前歯(まえば)を見せて笑うと、わざとらしく力こぶを作る仕草をしてみせた。
「時給もだけど、新しいバイトの面接に同席とかさせてもらえるようになったら、なんか、ダラダラ続けてたバイトでもやる気出るね」
「そっか」
ダラダラした、と言いつつ、えみりのバイト先は割と高度なコミュニケーション能力を必要とされる外資系カフェだ。気合いがなければ続けられない。週に六日(しゅうにむいか)、毎日あの笑顔と感じの良さを保てるえみりをマチは素直に尊敬している。
「体調気を付けて頑張れ」
「マチも」
廊下でバイバイと別れたところで、「そうそう」とえみりは振り返った。
「土日で会わなかったから言いそびれたけど、一昨日、二十歳の誕生日おめでと!」
いいそびれる 【言いそびれる】English fail to tell ▸ 母が悲しむのでつい言いそびれた.【言う機会を逸する】miss a chance to say
「ありがとー」
素直で元気なえみりの祝福に、マチは笑顔で答えた。すでに一昨日、日付(ひづけ)が変わった瞬間にお祝いのメッセージと勤め先のカフェのデジタルバウチャーを送ってくれていたのに、律義だ。いい友人に恵まれた(めぐまれた)と思う。
そして、誕生日、という単語のおかげで、一昨日の夜浩太と共にした夕食とそのあとのことを思い出し、マチはきゅっと唇を結んで学部棟(がくぶとう)の玄関に向かった。
札幌の中心部は冬のたっぷりとした降雪(こうせつ)を避けるためなのか、地下鉄沿線(えんせん)に地下道(ちかみち)が張り巡らされている。マチは大学を出てから札幌駅北側から地下道に入り、大股(おおまた)で歩いた。ショートブーツのヒールがカツカツと音を響かせる。背筋を伸ばして、骨盤(こつばん)と上半身をひねるようにしながら、大殿筋(だいでんきん)と太もも(ふともも)の裏側を意識して歩く。陸上に打ち込んだ中学時代、コーチから普段から効果があるトレーニングとして叩き込まれた歩き方だ。
もともと身長百七十センチちょっとのマチが大股で歩くと、大抵の友人はついてこられない。それもあって、マチは目的があって行動する時はなるべく一人で行くようにしていた。おしゃべりをしながら人に合わせて速さを落とすと、やたら疲れる。それに、大学にも友人は多いが、もともと一人で気ままに行動する方が楽な性分(しょうぶん)だった。
しょうぶん しやう― 01【性分】生まれつきの性質。天性。性格。「何事もいい加減にできない―」「損な―」
マチの外見は人目を引く。父親譲りの高身長(こうしんちょう)に母親譲りのシュッとしたアスリート体形。化粧(けしょう)は他の学生から浮かないよう薄めに粉をはたいてリップを引いてはいるが、もともと美容部員に「整ったお顔立ちですので」と過剰な足し算を避けた化粧を薦められる顔だ。美人、きれい、と人から褒められることもあるが、裏返せばクール、冷たそう、という意味で言われていることも理解している。実際、微笑みを消して考え事をしている時はよく「機嫌が悪いの?」と気遣われて(きづかわれて)しまう。
きづかう 【気遣う】worry ⦅about⦆, be worried ⦅about⦆, be concerned ⦅about, for⦆.(⇨心配する) ▸ 我々はその子の安否を気遣った.We were concerned for the safety of the child.
服装は母親とその友人が着ていた服をお下がり(おさがり)として大量にくれるので、それを適当に着ていることが多い。いずれもそこそこのブランドで、母たちの若作り癖(わかづくりぐせ)のせいか、マチが着ても違和感のないデザインが多い。センスのある彼女たちが自分に似合うものを与えてくれているのだと思っているから、マチは基本的に適当に組み合わせて着ているだけだ。出がけに母から「あらマチ、そのジャケットより色が合うのあったでしょ」などと、たまにダメ出しをされることはあるけれど。
わかづくり 3【若作り】服装・化粧などを,実際の年齢より若く見えるようにすること。「―の女性」
エステなどには特に行っていない。必要性を感じない。髪は癖のない黒髪(くろかみ)なので伸びるに任せ、前髪(まえがみ)だけ自分で切って、あとは動画で見た『かんたんまとめ髪』を参考にくくっている。シャンプー類や基礎化粧品も母が買って家に置いてあるものを使っているだけだ。質がいいものが選ばれているのか、マチが改めて手をかける必要もない。
エステ 1, エステティックの略。エステティックサロン 7〔 aesthetic+salon〕全身美容を行う美容院。エステサロン。エステ。
普通に生活している。マチはそれだけで所謂(いわゆる)「女性の身だしなみ」の大半を楽にクリアできていた。
「岸谷さんてさあ、すごいよねえ」
同級生や上級生の、主に同性から投げかけられたことは数知れない。素直な感嘆が三割、嫌味と皮肉が七割とマチは判断している。
え、だからなに?
腹の中の素直な言葉は封印し、あいまいに笑って「そうかな。そんなことないよ」と返すのが常だ。というより、他になんと答えればいいのか。マチとて、自分が生まれ育った環境や親から受け継いだ肉体が一般の平均より恵まれていること、それが他人から見れば傲慢(ごうまん)に見える可能性があることは察している。
でも、だから?
自分ではどうしようもない。家族がまっとうで、努力してやりたいことがあれば全力で取り組むことができて、フィジカルもメンタルも安定している。その場を整えてくれている親や、自分を取り巻く(とりまく)人たちに感謝はしている。でもその外側(そとがわ)の人たちから嫌味(いやみ)を言われる筋合いはない。
今でこそ精神的に成熟したマチは、自分が他人からどう見られているかと自分のありかたについて何の引け目もなく受け入れているし、時には人の揶揄にも似た感情をうまく受け流している。だが中学生ぐらいまでは、相応(そうおう)に悩んだのだ。
恵まれていてごめんなさい。
そんな風に引け目を感じる日々だった。背筋を伸ばすことなくいつも猫背で、目立つことを避け、陸上長距離に励むばかりで友達も少なかった。
今は違う。特にきっかけがあったわけではないが、高校、大学に進むにつれ、自分が縮こまらなければならない理由なんてない、と自然に思えるようになった。だから背筋を伸ばして歩くし、ヒールのある靴も堂々と履く。褒め言葉の裏側に気づいて落ち込むようなこともない。ただ、お金や生活環境の話は過剰に反応する人もいるのでなるべく口にしない。経験から処世術(しょせいじゅつ)を身につけたおかげで、大学に進学してからはマチに直接あてこするようなことを言う人はいなくなった。それで十分だ。今日もマチは胸を張って地下道を闊歩した。
あてこす・る 4【当て擦る】(動ラ五[四]) ほかの話にことよせて,遠回しに悪口や皮肉をいう。「正太は妻の方を見て,―・るやうな調子で歎息した」〈家•藤村〉
札幌駅から連絡通路で繋がった商業施設と、駅近くの大型書店を手早く回る。残念ながら二店とも、目当ての雑誌はなかった。仕方なく、また地下道に入って大通公園(おおどおりこうえん)近くの書店を目指す。ネットで調べればおそらく探し物はすぐ見つかるだろうけど、一日二日(いちにちふつか)の待ち時間が惜しくて、マチは頭の中で書店を巡る効率的なルートを組み立てていた。
カツカツカツ、とマチのヒールの音はいつの間にか速くなっていた。幸い、札幌駅の真下あたりにある人通りが多い区域に入っていたので、音はそう目立たない。欲しいものがあれば、人に迷惑をかけない限りはなるべく早く手に入れたいと思う。物も、望ましい自分の在り方も。そんな自分の性分が、マチは嫌いではなかった。
その歩みを、間延びした声が遮った。
まのび 【間延び】▸ 間のびした⦅退屈な⦆話a dull talk.▸ 間のびした顔a stupid-looking face.
「すいませーん、ちょっと聞きたいんだけど」
「……なんでしょうか」
変に愛想のいい男の声と、肩を叩かれた感触。マチは少しうんざりしながら、両口角(りょうこうかく)を少しだけ上げ、落ち着いた声を意識して返事をした。声をかけてきたのは四十代ぐらいの男だった。スーツに大き目のビジネスバッグ。いかにも出張で札幌に来ました、という様子だ。ネクタイが妙に明るい水色のドット柄で、地味な顔よりそちらについ目がいってしまう。
「地元の方? この辺で、夕飯食べるのにいいお店、ないですかね。出張で来たばかりなので、分かんなくって」
言葉通りの質問なら、その手に持っているスマホで調べるなり、案内所で聞くなりすればいいだろうに。マチは内心呆れながら、男の真意に気づかないふりをして周囲を指した。
「もう少し南のポールタウンまで行けば、両側に飲食店増えますよ。もしくは、この辺でも地上に出れば色々ありますし。よほど極端な店構えでなければ、どこ入ってもそう外れることはないと思います」
では、と軽く会釈(えしゃく)をして歩き出そうとしたマチに、男が「いえあの」と慌てて捲し立てる(まくしたてる)。
まくした・てる 5【捲し立てる】言いたいことを激しく,一気に言う。また,一方的に言う。「早口で―・てる」
「良かったら一緒に、とか、どうです?」
「いえ」
友達と約束あるので。彼氏いますので。バイトの時間なんで。
そのどれもが過去答えた例だが、いずれも「おごるんでその友達もぜひ」「ご飯だけだから彼氏いても別にいいし」「どこでバイトしてるの?」とますます面倒なことになった。
「歯医者の予約で急いでいるので」
マチはごく自然に微笑み、その場を離れた。男が追ってくる様子はない。「ヘッ」という、負け惜しみらしき短い溜息だけが聞こえた。
どうせ嘘をつくなら社会的な約束を盾にするのがいちばん効果的だし罪がない。相手が社会人でよかった。これがホストの呼び込みならもう少し面倒なことになるパターンが多い。
ゆったり歩く周囲を追い抜きながら、マチは軽く眉間(みけん)に皺を寄せた。人がいい気分で歩いているだけで、突然断る・断らないの選択を強いられ、穏便な処理の仕方までこちらが考えなければならなくなる。単純に気分が良くない。もっと言えば煩わしい(わずらわしい)。他人のことなんかどうでもいいじゃない。自分の歩きたい道を、脇目もふらずに歩いていればいいのに。人の見た目がどうとか恵まれているとかいないとか、ほんとに全部どうだっていい。
淀んだ(よどんだ)気持ちを振り切るように、マチはいつもよりもさらに歩幅(ほはば)を大きく、ピッチを速くして歩き続けた。無表情を通り越した仏頂面(ぶっちょうづら)のお陰で、通行人に横目で見られることはあっても余計な声をかけられることはもうなかった。
マチは地下鉄大通駅近くの書店に入り、目当ての雑誌を探した。いつもは注視することもない男性向けの趣味に関する雑誌コーナーの前で立ち止まる。車。バイク。プラモデル。スポーツ。マチが高校時代に部室(ぶしつ)にいつも置いてあった陸上専門誌もあった。その隣に、アウトドア向けの雑誌とミリタリーマニア向けの雑誌が集中して置かれた一角がある。マチは一昨日浩太の部屋で見かけて記憶した雑誌名をその中から探した。
「ミリタリーマニア」とは、軍事や兵器、戦争歴史などに強い興味を持ち、知識や情報を深く追求する人を指します『狩猟Life』、七月号と八月号。その二冊が棚に刺さっていた。七月号は浩太が持っていた号、それをバックナンバーとして残していたのか、加えて最新刊も出ている。
ラッキーだ。二冊もある。目当てのものを見つけた喜びで、マチの心臓がどくりと跳ねる(はねる)。こんな心楽しい瞬間は久しぶりだ。他の客はまばらだが、万が一にも先に買われないようにと二冊いっぺんに手にとり、足早にレジへと向かった。
地下鉄の車内は帰宅ラッシュには少し早いのか空いていた。マチは座席に座ると、手にしていた書店の紙袋を開けて中身を取り出す。七月号は浩太のところでゆっくり読めなかったが、まずは未知の八月号を先に手に取る。
表紙は森林をバックに、高良健吾(こうら けんご)に少し似た男性が長い銃を両手に微笑んでいる。その要素だけならサスペンス映画の広告のようにも思えるが、オレンジ色のベストを纏っているのでそれが狩猟の姿なのだと分かる。男性の脇には『特集・狩猟解禁日に向けての準備とトレーニング』『カモ撃ちの極意はこれを見ればわかる!』『ハーフライフル規制に向けての対策』などの文字が並んでいた。
狩猟解禁日(しゅりょうかいきんび)。禁じられた期間と許される期間があるということ。決まりがあるのか。勝手に山に入って撃ってはいけないということか。カモ撃ち(うち)。そういえば一昨日、出された前菜がカモのゼリー寄せだった。カモ肉は好きだ。日本でも撃って手に入れられるんだろうか。ハーフライフルってことはライフルの半分の長さなのか。そもそもライフルってどんな銃をそう呼ぶのか、全然知らない。あ、記事の間に銃の広告が入っている。浩太のところで見た七月号にも載っていたけど、やっぱり一丁二十万とか三十万からするんだ。高い……いや、多分何年も使う、鹿とかクマとかの命も奪えてしまえる火器(かき)なんだから、意外と安いものなのかもしれない。
マチは夢中で読み漁っていた。