第3回 河崎秋子 2024/09/19

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家で狩猟雑誌を偶々(たまたま)見つけて手に取る。父は会社の創業者一族で、母はスキーの元オリンピアン。恵まれた環境で育ち、趣味でトレイルランニングを続けつつも、なにか物足りなさを感じていたマチは、初めて見る狩猟の世界に惹きつけられ、大学の授業の後にさっそく書店へ行き、狩猟雑誌を購入する。

 雑誌に顔を近づけ、集中して舐めるように読んでいたので、周囲の客が奇異(きい)なものを見る視線を送ってきている気配がする。マチはそんなことは構わなかった。

 正直、読み進めていても出てくる単語や銃砲(じゅうほう)の扱い、読者が基本を知っていることを前提にして書かれている専門的な記事など、何もかもが分からない。それでも、未知の情報と、それをもっと知りたいと思う自分の心の動きに、マチは我を忘れていた。

 途中の幾つかの駅でドアが閉まり、車両が走り出す、を繰り返す。

『次は西28丁目、次は西28丁目ー』

 耳慣れたはずのアナウンスが告げた次の駅名に、マチは驚愕(きょうがく)した。自宅最寄りの円山公園駅(えんざんこうえんえき)で降り忘れたのだ。今までどんなに疲れている時でもぼーっと(absent-mindedly)している時でも、こんなことはなかったというのに。間抜けだ。自分らしからぬ間抜けさだ。自分は今、おかしい。

まぬけ 【間抜け】 ( 名 ・ 形動 ) 文語形 ナリ 考えや行動にぬかりのあること(absent minded)。気がきかないこと。また,そのさまやそのような人。 「 ─ 面 (づら) 」 「 ─ な奴 (やつ) 」

 そして、自分をおかしくさせるものがある。マチは読んでいた二冊の雑誌を閉じて胸に抱いた。腕の中が熱かった。

 西28丁目駅でマチは降り、自宅を目指して歩き始めた。最寄り駅ではないが歩いて帰れない距離ではない。ちょっとした登り坂になるので、足と尻が鍛えられるトレーニングだと思って帰ればいい。

 もう日は沈み、右手に黒々(くろぐろ)とした山のように円山公園とそこに繁る木々が見えてきた。北海道神宮(じんぐう)、動物園、野球場(やきゅうじょう)などを擁した広大なエリアで、夜は静かだ。木々の合間には暖色(だんしょく)の街灯がぽつぽつ見えるが、ほとんど真っ暗と言っていい。日中は観光客やカップル、散歩する地域住民などでにぎわう一方、夜は異様に静かで防犯の意味もあってマチはあまり近づかないようにしている。トレイルランに打ち込んでいた頃も、ちょうどよい起伏(きふく)があることからしょっちゅう公園内のランニングコースを走っていたが、たとえ夏でも午後五時以降は公園を出るようにと、両親からきつく言われていた。

 そういえば、これも森か。

 人が多く、内部に建築物(けんちくぶつ)がいくつかあるため今まで意識したことはなかったが、この広大な公園も一つの森といえる。実際、年に数回程度はクマの目撃情報があり、小学生が集団下校(げこう)を強いられたり、公園の遊歩道(ゆうほどう)が通行禁止になることもある。

ゆうほどう 【遊歩道】散歩に適するようにつくった歩道。散歩道。プロムナード(promenade)a path for walking on, especially one built next to the sea 。

 とはいえ、札幌市内ではもっと頻繁に出没(しゅつぼつ)情報がもたらされる地域が多くある。そこからクマは細い緑地帯(りょくちたい)を伝って(つたって)円山地区まで迷い込んできただけで、住み着いている訳ではないようだ。

 この辺りの目撃情報のうちいくつかは、近隣の住民が散歩させていた黒いチベタンマスチフ(藏獒)をクマと誤認していたものだということが判明している。とはいえ笑い話ではなく、マチだって、黒い大きな毛の塊が公園内を歩いていたらクマだと見間違えない(みまちがえない)自信はない。つまり、クマについて、犬ときちんと区別がつかないほどのあやふやなイメージしか持っていないのだ。

 狩猟をする人たちならどうだろう。

 マチはリュックの中に入っている狩猟雑誌を意識した。記事の中にはクマを撃った読者によるレポートもあった。遭遇し(そうぐうし)、錯乱せず、怪我を負わされることもなく、クマに勝つ。そんな人なら、きっとチベタンマスチフをクマと見間違えはしない。

 街灯と遊歩道が整備された円山公園とはかけ離れたような山の中で、人間が、クマと出会う。山登りやトレイルランで偶然出くわしてしまうのではなく、むしろクマを追って山に入る人がいる。

 それは、同じ人間なのに、生き物としての定義が大きく違うような気がする。

 うすぼんやりとした、イメージの断片のようなものを浮かべ(うかべ)ながら足を動かしていると、坂を登り切って自宅に着いた。西側は円山公園の緑と隣接している。春と夏にセミの声が煩い(わずらい)以外は、慣れ親しんだマチの生家(せいか)だ。

 スマホを操作して鉄の門を開くと、駐車スペースの半分ががらんと空いている。父はまだ帰っていない。もう半分に、留学中の兄が残していった黄色いジムニー(Suzuki Jimny)と、家事代行サービスの軽自動車が停まっていた。

「ただいまー」

 玄関ホールに響き渡るように声を張り上げると、「おかえりなさーい」「おかえりー」と、キッチンとリビングそれぞれから間延びした女の声が返ってくる。同時に甘辛いしょう油の匂いが鼻先をくすぐった。

 リビングでは母の由美子(ゆみこ)が大きなガラステーブルいっぱいに書類と領収書を広げ、ノートパソコンを叩いていた。髪を後ろで雑にくくってリラックスウェアに着替えつつ、表情はまだ就業中のようだ。

 キッチンとダイニングをつなぐカウンターの向こうから、母よりひとまわり上の女性がすっきりと髪をまとめた三角巾の下で目じりの皺を深めていた。

「おかえりなさい、マチさん。お夕飯もうすぐですから」

「お疲れ様です、吉田(よしだ)さん。今日もすごくいい匂い」

「今日は鶏モモのしょうが焼きとオクラのお味噌汁。あと油揚げと小松菜の炒め煮です」

「やった。吉田さんが作る炒め煮大好き。食器出しますね」

「お願いします」

 マチは由美子が座るソファの端にリュックを置くと、手を洗ってキッチンに入った。アイランドキッチン中央のテーブルには今日のおかずの他、吉田手製(てせい)の色とりどりのおかずが大型タッパーに入って並んでいる。

「おっ、キノコのオイル漬け。これも好き」

「だめですよ、つまみ食いは。まだ味馴染んでないんですから」

 マチのつまみ食いに先んじて(さきんじて)、吉田は釘を刺した。

 吉田香(よしだ かおり)は岸谷家(きしだにけ)がもう十二年頼りにしている家事代行サービスの担当者だ。間に会社を挟んではいるが、配属された当初から彼女の能力に惚れ込んだ(ほれこんだ、to be charmed by)岸谷家が、ぜひにと指名を続けている。通いで週三回。実質、岸谷家の超有能な家政婦さんのようなものだ。市内で子育てが落ち着いてからサービスに登録したそうで、子どもの頃からマチらきょうだいも随分かわいがってもらい、また叱ってもらった。

 マチの両親が家事をアウトソーシングし始めたのは、三人きょうだいの末っ子弘樹(ひろき)が小学校に入る頃、由美子が女性専用ジムを立ち上げたのがきっかけだった。

 今はリビングで書類と格闘している由美子は、かつてアルペン競技の選手としてオリンピックに出場した経験もある元スキーヤーだ。引退後は指導者として働いていたが、元スポンサー企業の重役である岸谷義嗣(きしだに よしつぐ)と結婚し、現場の一線を退いた。しかしスポーツへの愛は消えることなく、今度は女性専用のフィットネスジムを設立し、蓄積してきた知識と技術を一般の人へと広めている。

スキー/アルペン ALPIN SKIING アルペンとは、雪山(ゆきやま)に作られた傾斜のあるコースを滑り降り、タイムを競い合う競技です。コースには旗門(きもん)が並べられており、その旗門を正確に通過することが要求されます。   パワフルな母ではあるが、たまに家に仕事を持ち帰るのは致し方ない。うんうん唸る声を聞き流しつつ、マチは茶碗を出すため食器棚に向かった。

「弘樹は塾?」

「ええ。おにぎりは持っていってもらいましたけど、帰った後の夜食は私が用意しておきます。旦那さんは会食と聞いてますし、マチさんと、奥さんの分だけです」

「わかった。ママー、ご飯できるよー」

 リビングに向かって声をかけると、「はーい」と草臥れた(くたびれた、tired)声が返ってきた。

「いただきます」   「あー疲れた。吉田さんありがとね、いただきます」

 ダイニングに整えられた夕食とキッチンで片づけをする吉田に、母と娘で手を合わせる。「めしあがれ」という穏やかな吉田の声はうちにきた当初から変わらない。マチは料理を少しずつ口に運んではよく噛む母に倣い(ならい)、黙々とバランスのとれた食事を味わった。

「はー、おいしい。仕事終わってすぐにあったかいご飯食べられるのほんと助かる。吉田さんのおかげ」

「どういたしまして」

 由美子は単純に忙しさから吉田の手を借りている。もともと自身が家事全般(かじぜんぱん)が嫌いでないだけに、吉田のありがたみを一番知っているのも由美子だった。機嫌よく鶏皮で千切りキャベツを巻いている母の姿に、マチはふと、今なら聞ける、と直感した。

「ねえ、ママ」

「うん?」

「鉄砲持って狩猟するのって、どう思う?」

「いいんじゃない?」

 由美子は口の中のキャベツを飲み込んでから頷いた。

「パパの取引先の人とか、あ、ご近所の山口(やまぐち)さんの旦那さんも免許持ってるらしいよ。ほら、あのお医者の」

「あ、うん」

 自分が今興味を持っている分野に、親がどういう印象を抱いているか。多少なりとも構えていた質問への、あまりにもあっけらかん(absentmindedly)とした答えにマチは面食らった。

面食らう; 面喰らう 【めんくらう】 (v5u,vi) to be confused; to be bewildered; to be taken aback ウォルターはジョンのひどい侮辱(ぶじょく)に面食らった。 Walter was taken aback by John's cruel insult.

「若い人とか、女性とか、持つ人もいるじゃない。ああいうの、どうなのかなって」

 婉曲に聞きすぎて、まるで自分が批判的な意見を抱いているような言葉選びになってしまった。由美子は味噌汁を啜って(すすって)、再度「別にいいんじゃない」と肯定する。

「スキーでバイアスロンて競技もあるしね。あれももともとは狩猟がルーツなんだって、五輪で一緒になった選手が言ってたわ、確か」

バイアスロンは、クロスカントリースキーとライフル射撃を組み合わせて行う競技です。ラテン語で2つを意味する「バイ」と、ギリシャ語で競技を意味する「アスロン」を組み合わせたものが語源とされています。

「へえ……」

 マチは素直に驚いていた。冬スキーでクロスカントリーのように移動しつつ的を撃つバイアスロンの競技を思い出す。言われてみると、あれは狩猟のための動きだ。

「マチあなた、鉄砲持ちたいの」

 箸を置きながら由美子は言った。一瞬悩んで、ごまかしが通じないと悟った(さとった)マチはなるべく心のままを言葉にする。

「わかんない。でも、たまたま狩猟の雑誌を目にすることがあって」

 ふんふん、と母はマチの目をじっと見ている。責めているのでも、子ども扱いしているのでもない。ジムで生徒に接する時と変わらない、ただ本音を話してほしい、という態度だ。

「やりたいかはまだわからないけど、何か、面白そうかなと思ってる」

「そう」

 由美子は再び箸をとった。しばらく二人の食事の音と、吉田の洗い物の音がかすかに響く。やがて、由美子が食べる手を止めないまま沈黙を破った。

「マチが本当にやりたいなら、反対はしないよ。ただ、危険な可能性が少しでもあるなら、ママにもパパにも内緒で進めるのは絶対やめて。それは約束してほしい」

「うん。分かった」

 もう二十歳を迎えた娘に対し、最大限の心配と誠実さで接してくれている。それが理解できたからこそ、マチは素直に頷いた。

「あと弘樹の前ではまだその話しないでね。受験生なのに、あの子まで興味持っちゃったら大変」

「わかった。気をつけます」

 弟の高校受験の邪魔になっては申し訳ない。母の忠告を裏切ることのないよう気を付けながら、もう少しどういう世界か見てみよう。そう思いながら、マチは大きな鶏モモをほお張った。

「そういえば、あなたの大学の近くに鉄砲売ってる店なかったっけ?」

「そんな、金物屋(かなものや)かコンビニみたいに」

「いや、あるはずよ。さっき言った山口さん、うちの入門コースに通ってるでしょ。生徒さんたちの休憩時間に旦那さんの趣味が話題になって、そんなこと言ってた気がするわ」

「主婦の井戸端ネットワーク、すごいね……」

 一番すごいというか怖いのは、講師として生徒の雑談にまで気を配り、しかも記憶していた母なのだが。マチはそれは口には出さないでおいた。

 先に食べ終えた由美子は、空いた皿を重ねながら「まあねえ」と間延びした声を出した。

「新しいことにチャレンジできるのは若くても若くなくてもいいことよ」

 そうだね、と肯定する意味でマチは茶を飲んで頷いた。思っていたよりも熱くて、思わず軽くむせる。

「大変だろうけど」

 という、母の小さな呟きの真意は咳にまぎれて聞きそこなった。

聞き逃す/聞き損なう(ききそこなう)/聞き忘れる 聞き逃す/聞き損なう/聞き忘れる の共通する意味 聞くつもりでいたのにその機会を逸する。英語表現 to fail to hear

 食事を終え、風呂も終え、マチは二階自室のベッドに倒れ込んだ。吉田がセットしてくれたシーツの、皺ひとつない木綿地が頬に気持ちいい。

「このまま寝てる場合じゃない」

 マチは上体を起こすと、リュックを引き寄せ今日買った『狩猟Life』二冊とスマホを取り出した。雑誌を読む前にとスマホの画面を確認すると、浩太からLINEのメッセージが入っていた。

『このあいだは楽しかった』『来週末空いてる?』など、短いメッセージが連続で五つほど。いつもならマチもその雰囲気に合わせたメッセージを送るが、今日は『誕生日の時はほんとにありがとね、楽しかった』『来週の予定分かり次第こっちから連絡するね』と二つのみ。あとは『おやすみ』のスタンプで締め、会話をあらかじめ遮断した。

 別に面倒臭いわけじゃない。浩太と他愛ない(たわいない)メッセージのやりとりをすることは楽しいと思っている。ただ、今、自分の心にはちょっと優先したいことがある。

 マチはLINEを閉じると、地図アプリに『札幌 銃砲店』と入力した。

 検索結果はすぐ出た。近郊含めて八軒。『ガンショップ』、『銃砲火薬店』、または銃と関係なさそうな『〜商店』という名前もあった。その中で、マチが通う札幌駅北エリアにもポイントマークが示されている。母が言ったのはこれだろうか、とタップした。マチの脳裏には、登別の時代村や時代劇撮影所のような木造で平屋の店舗がイメージとして浮かんだ。

『堀井銃砲店(ほりい てっぽうてん)』

 店舗の写真も一緒に表示されている。打ちっぱなしのコンクリートを土台に、白い壁。二階建てか三階建てに見えるその写真は、まるで老舗の時計屋か宝飾店のようだ。しかし、画面を拡大すると確かに入口らしき自動ドアの上に『堀井銃砲店』という古びた木の看板がかけられていた。