夜明けのハントレス(hunt・ress) 第13回
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家にあった雑誌を読んで狩猟に惹かれるが、狩猟免許を取りたいと話すと浩太はそれを歓迎せず、二人は別れることに。狩猟をやろうと思っていると友人のえみりに話すが、彼女もまた、それを理解してくれなかった。そして翌年十月。狩猟免許を取得したマチは、ハンターとして初めての鹿撃ちに参加する。
鹿たちはスコープの向こうで頭を上げ、耳を立てて周囲をうかがっている。こちらに気付いたようだ。だが、すぐには逃げない。多少の個体差はあれども、鹿は異常を察知するとその場で静止して周囲を確認することが多い。
その瞬間を、『鹿が自分の命を差し出している』と表現するハンターもいる。そうかもしれない。違うかもしれない。少なくともまだ獲物を撃ったことのないマチが判断できることではない。ただ、撃つチャンスであることは間違いない。弾をちゃんと込めたこと、安全装置を外したこと、撃って問題ない場所だということを頭の中で素早く確認し、引き金に指をかける。
ネックショット。ヘッドショット。そう呼ばれる、首や頭といった急所を狙うのが本来は望ましい。それは新田ら先輩ハンターから散々聞いている。一発で仕留められ、鹿に苦痛を与えずに済み(すみ)、肉に損傷も少ない。
しかしマチは初心者(しょしんしゃ)だ。練習を重ねてきて、新田が見守っている状況であっても、最初からうまくいくと考えるのは驕り(おごり)だ。
だからマチは、首の付け根からやや胴体側を狙った。確実に体に当たる場所だ。息は細く静かに。両目を開きつつ、利き目である右目を意識してスコープの奥の鹿を睨む(にらむ)。
目で殺す。
弾と同時に、眼力で仕留めるつもりで、引き金を引いた。
ひとつミスを犯していた。耳栓(みみせん)をし忘れていたのだ。他のハンターも急ぎの時は耳栓をしないまま発砲することはあるとはいえ、マチはこの時、安全に、確実に撃つことばかりを考えすぎて、耳栓の存在を忘れていた。両手で猟銃(りょうじゅう)を支えているから、当然、耳を塞ぐものはない。至近距離で発砲音を耳にすることになる。
引き金を引いた瞬間、腕の中で銃が文字通り火を噴き、大きな音が耳を襲い、マチは全身でその衝撃を受け止めた。
鹿たちは、即座に反応する。三頭とも同時にパッと飛び上がり、二歩、三歩と駆けてその場から逃げ出す。先頭に立っていた鹿が、五歩目の途中で地面に倒れ込んだ。
「よしっ」
新田がそう唇を動かすのが、マチの視界の端にうつった。音が聞こえない。発砲音を間近でとらえて、耳鳴りのキーンという音が頭の中で響いていた。
あとの流れはスムーズだった。今まで見学した猟と同じく、安全の確認をしながら倒れた鹿に近づく。鹿は、投げ出した四肢(しし)を力なく動かしていた。新田に促されて、マチはナイフを首の根元に入れ、ひねる。刃(は)を抜くとたちまち傷口から温かい血が溢れて、鹿の瞳孔が開いていった。
生き物を殺した。
止め刺しの経験はあったが、ハンターとして獲物を仕留めたのはこれが初めてだ。
マチはもともと自分の体にとまった蚊や部屋に入り込んだハエを叩いて殺すことに抵抗を感じたことはなかった。もちろん命を奪う(うばう)ことに快楽は微塵(みじん)もない。
そして今回、余りにも淡々と、淀みなく、狩猟者(しゅりょうしゃ)としての最初の狩りが達成された。怖さや喜びはない。ただ、体の力が抜けた。耳の奥で耳鳴りがまだ響いている。
「マっちゃん」
キーンという薄い音の向こうから、新田の声が聞こえる。
「写真撮る?」
新田はスマホのカメラをこちらに向けていた。新人ハンターが初めての獲物を得た。それは、写真に残すべき、そして喜びと共に見返されるべきものなのだろう。普通は。
「いえ」
マチはほとんど反射的に首を横に振った。
「撮らなくて大丈夫です」
むしろ、撮らないでほしい。写真に残してしまえば、せっかくの自分の体験がもぎり取られるような気がした。
写真も、動画もなしで、私はこの瞬間を自分の中に残しておかなければならない。マチはいつの間にか下唇(かしん)を噛んでいた。喜びよりも、大きな責任を負った重みに耐えるように、両足を踏ん張るようにして鹿を見た。
撃ってそれで終わりではない。やるべきことはまだあるし、思考より先に手を動かさなければならない。解体に入ってしまうと、マチはひたすら無心になった。今まで新田たちに連れてきてもらった猟で解体の手伝いはしてきたので、手順は分かる。
ただ今回は、肩から入った弾が胸部を破壊していたので、「こういう時はね」と新田が手本を見せてくれた。胸骨の真ん中にナイフを入れ、塊状(かいじょう)になった血の塊を見せる。
「ここから入って、肩の肉と、肩甲骨(けんこうこつ)を破壊してる。で、肺があるスペースに血がたまってるわけ。これをまずとらないと、肉くさくなるから」
新田はぶるんと血の塊をのけた。いつの間にか無線で連絡を入れていたのだろう、他の仲間たちが次々と集まって、大まかな解体はそれから三十分もしないうちに終了した。
肉は大きな塊にして、ビニール袋に入れる。今回は、着弾位置から肩回りの肉がズタズタになっていたので、持ち帰れる肉はそう多くはなかった。
「もったいないこと、しちゃいました」
深く掘った穴に残渣物として皮や内臓を埋める際、廃棄する肉を入れながらマチは俯いた。
「なに言ってんの」
熊野は折り畳みスコップをうまく使って土をかけながら笑った。
「初の鹿撃ちでちゃんと仕留められただけすごいって」
「それは、そうなんですけど」
「それより、長いかもしれないハンター生活の中で、最初の獲物は今回だけなんだから、ちゃんと喜んでおくといいよ」
「はい」
熊野の励ましに、マチは頷いた。正直、自分が喜んでいるのか、喜んでいいものなのか、分かりかねている。
皆でいったん駐車場所に戻り、肉を置く。鹿撃ち遠征は一頭だけでは終わらない。そこからは日没まで、再び山の中で鹿を探す運びになった。
二頭目を狙う。それを考える前に、新田は「マっちゃん、あとは他の人のサポート頼むわ」と言った。
マチは深く考えず素直に頷いた。それを見て、新田はハンターから優しいおじいちゃんの顔になって腕を組んだ。
「あんたがそうだとは言わないけど、初めて仕留めた後ってのは、普段と精神状態が違うことが多いからね。集中切れてたり、逆に過集中状態になってたり」
「わかりました。手伝って、クールダウンします」
「うん」
そんなやりとりがあったため、マチは二頭目を狙わず(ねらわず)、先輩たちの補助に徹した。新田が一頭、他の面々が合計で三頭を仕留めて、それぞれ協力して解体、運搬を行っていく。やがてすぐに太陽は山の向こうへ姿を隠した。
帰り際、駐車場で新田や熊野、他の面々はマチが初めて獲物を得たことを、心から祝福してくれた。
「いやあ、初めての猟でビビんないでちゃんと撃って当てられるなんて、肝が据わってるよ」
「いえそんな、新田さんや皆さんがいてくれたおかげで」
「撃った後も堂々としてるしねえ。こりゃあ、将来有望だよ」
本心ではあるのだろうが、マチとしては返す言葉に困る讃え方(たたえかた)をされた後、きりのいいところで新田がマチの肩を叩いた。
「ま、今日あとは家に帰って、銃の掃除してゆっくり寝な。寝れなくても、目閉じて横になってなよ」
「はい」
マチ自身、いまは先輩たちに褒められたように肝が据わったように見えても、時間が経って気が抜けたらどうなるかは分からない。改めて新田に礼を言い、解散になった。
日が落ちた名残で橙色(だいだいいろ)に染まった西の空を見ながら、マチは札幌の自宅へと車を走らせる。往路(おうろ)はひとり。復路(ふくろ)はひとりと、仕留めた鹿の肉が一緒だ。
ごめんね。
言葉には出さず、マチは心の中でだけクーラーボックスに入っている鹿肉に語り掛けた。
マチは仕留めた後、他のハンターの狩猟を間近で見続けて、つくづく自分の未熟さが分かった。
急所の狙い方、獲物を見つけた時の立ち回り。何もかもが自分と違う。これまで見学させてもらっていた時には気づいていなかったことが、自分が撃つ側になったことでよりクリアに見えるようになった。それはイコール、マチの未熟さをありありと照らすものだった。
「もっと上手くなりたい」
自己嫌悪(けんお)でも、落ち込みでもなく、マチはハンドルを握りながら呟いた。
家に着いたのはもう真っ暗になり、夕食の時間も過ぎていた頃だった。
「お帰りなさい、お風呂すぐ入れますよ」
リビングでは家事代行の吉田が片づけをしていた。両親は仕事、弟は塾。いつもの風景だ。しかし、マチは明るく暖かい家の中に入り、ふっと自分の体から力が抜けたような気がした。
「ただいま。無事、鹿とれたよ」
迎えてくれた吉田に明るい表情を見せながら、マチは密かに自分の心に驚いていた。家に帰るまで、緊張していたのだ。何度も猟の見学に行き、新田に付き添ってもらっていたのに、自分の心身は相当緊張していたらしい。新田が色々と気を遣ってくれていた真意を、改めてありがたいと思った。
「吉田さん、クーラーボックスのお肉移したいんだけど、冷蔵庫にスペースあるかな?」
「ええ、大丈夫ですよ」
マチのとった鹿は皆で分けたとはいえ、それでも骨を抜いた二キロほどの塊肉(かたまりにく)が三個あった。
「マチさんならお肉持って帰ってくると思って、場所あけておいたんです」
吉田のはからいにマチは礼を言った。彼女はマチが猟に出ている様子ももちろん腕前も知らないが、そう信じてくれたことは素直に嬉しいと思う。
マチはひとまず風呂に入り、ダニが体についていないことを確認した。風呂上がりに、吉田が作ってくれたカツ丼を食べた。初狩猟でいい結果を祈願して準備していたメニューなのかな、と思いながら、黙々と口に運ぶ。疲れた体に甘めの味付けがありがたい。厚い豚ロース肉を噛みながら、畜肉として売られる肉と、狩猟で得られた肉の違いをふと考える。しかし、思考を深くする前にまったりとした眠気に襲われた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです。吉田さん、帰る時によかったら肉もらっていってね」
「あら、いいんでしょうか」
口では戸惑いながら、吉田は嬉しそうだ。良かったな、とマチは思う。自分で得た食材で人に喜んでもらう。料理やお菓子を作って人にあげるのとは全く異なる感覚だ。農家や漁師の人が身内にお裾分けする気持ちに、もしかしたら近いのかもしれない。
「あらマチさん、もうお休みですか?」
まだ時間は夜九時前だが、マチは歯を磨いて寝支度をした。
「うん。銃のお手入れして、早めに休みます。今日は早起きしたあと山歩きしたから、眠くて」
「おやすみなさいませ」
マチは部屋に戻ると床に新聞紙を広げ、銃カバーから銃を出して横たえた。弾が残っていないことを確認し、表面のホコリや泥をウエスで拭っていく。緊張はあっても心配なく鹿を撃てたのはこの銃のお陰かもしれない。マチは心をこめて手入れを済ませた。
電気を消し、ベッドに横になると、不思議と眠気(ねむけ)はなくなっていた。
二十四時間前、ここで寝ていた自分は、鹿を撃ったことのない自分だった。そして今、鹿を仕留めた自分になっている。疲れよりも、一歩大きく居場所を変えたような経験に、全身の神経が沸き立っていた。
思っていたよりも、大きな世界に足を踏み入れたのかもしれない。
時計を見ると、夜の十一時を回っていた。マチは思い切って身を起こし、パジャマから部屋着(へやぎ)に着替えてリビングに向かった。仕事から帰ったらしい父がソファで新聞を読んでいた。
「おかえり」
「お。寝たんじゃなかったの? 帰りがけの吉田さんから聞いたよ、初狩猟(初しゅりょう)、成功だって?」
「うん。鹿、とったよ。明日の夜、吉田さんと料理するから。帰れる?」
「うん帰れる、というか万難排して帰る。楽しみにしてる」
嬉しそうな父の様子に、マチはほっとした。娘の狩りの成果を喜んでくれる父でよかったと思う。
「遅いけど、友達のところにお肉届けてくる。車で。すぐ戻るから」
「えー、すぐ帰ってきなさいね」
父は幾分(いくぶん)心配そうだが、マチは迷わず冷蔵庫を開き、比較的小さな塊肉を取り出した。そして、ヒレ肉周辺の目立つ筋(めだつすじ)をとり、きっちりとラップに包む。保冷剤とともに保冷バッグに入れ、まだ山の泥や木の気配が残る車に乗り込んだ。夜の街中を走り、大学近くへと向かう。
えみりが住んでいる三階建てアパートの二階の部屋は、外から見る限り電気がついていなかった。カフェのバイトだったら遅番で店を閉めるまで帰ってこない。一応インターホンを押したが、反応はない。会いたかった、と思う気持ちと、会わずに済んだ、という安堵がマチの中で入り混じる中、玄関ドアのノブに保冷バッグをひっかけた。少し迷ってから、ハンドバッグから手帖を引っ張り出して、メモページをちぎり取る。
『今朝とった鹿のヒレです。切って塩こしょうで焼くだけでおいしいと思う。いらなかったら人にあげてください マチ』
いらなかったら捨てて、とは書けなかった。人にあげてもいいけど、できるなら食べてくれたら嬉しい。そう望みを託して、メモを保冷バッグに入れた。