夜明けのハントレス 第17回 河﨑 秋子 2024/12/26
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、偶然手にした狩猟雑誌を読んで狩猟に惹かれる。猟友会会長の新田に教えを乞いながら狩猟免許を取得し、鹿撃ちも経験する。そして就活も終え、マチのハンター二年目の猟期が始まった。マチはそれまでグループで鹿撃ちをしていたが、単独猟を経験するため初めて一人で山に入り、クマに遭遇、そのクマを仕留めてしまう。
クマを撃った。
マチは発砲音と続く耳鳴りがおさまるまで、その場から動けなかった。斜面の下で、クマはもがいた後に動かなくなっている。
そのまま、たっぷり三分。
マチは固唾(かたず)を呑んで動かないクマを見つめ続けた。気づけば顎の奥から音がする。知らず、歯をきつく食いしばっていたらしい。
マチは胸ポケットからスマホを取り出し、新田に電話をかけた。
「クマ、撃ちました。いつもの駐車場の、私の車の近くに倒れている状態です」
新田が息を呑んだ雰囲気が伝わってくる。
『動かないか』
「はい。撃った場所から三分見てますが、動く様子はありません。近づいて大丈夫でしょうか」
『まったく動かないんなら大丈夫だろうが、心配なら銃構えた(じゅうかまえた)状態で近づいて確認しなさい。回収に、小川(おがわ)がわを向かわせる。俺も午後の予定終わったらすぐ行くから。小川は覚えてるな?』
「はい」
小川は新田のグループに属しているベテランハンターだ。ここから二十キロほど離れた町にある中古車販売会社の社長で、ジビエの加工販売も手掛けて(てがけて)いる。以前、この山で鹿を撃った際に解体場所を貸してくれた。
『小川が先に合流したら、俺も加工場(かこうじょう)に向かうと伝えてくれ。夜には着く』
「はい」
電話が切れた。マチはクマから視線を外さずに斜面を下りる。クマは変わらずぴくりとも動かない。新田に言われた通り、弾を込めて銃口(じゅうこう)をクマに向けて近づく。
マチは銃口でクマの頭を軽く小突いた(こづいた)。動かない。半開きになった口から、長い舌が飛び出ていた。まるで地面を舐めているようだ。その舌にも、ちらりと見える牙(きば)にも、動きはない。血の出所をみると、首の付け根に着弾しているようだ。
ちゃんと死んでいる。
鹿と同じ、撃たれて死んだ野生動物の死体のはずなのに、クマは印象がまるで違った。
轢かれた(ひかれた)犬ってこんな感じだったかもしれない。マチはふと、場にそぐわぬことを思い出した。自宅の近辺で、飼い主が散歩中の大型犬のリードを離してしまい、折あしく(おりあしく)その犬が走行中の車に突進してぶつかってしまったことがあった。
運悪く、その現場を通りかかったマチは、地面にぐったりと横たわる死体を覚えている。真っ白で、四肢を投げ出して動かず、長い毛(ながいけ)がそよ風に揺れていた。
そして、今、焦げ茶色のクマが同じように横たわっている。しかも、車ではなくマチが死なせた動物だ。
ああそうか、とマチはようやく気付いた。クマ、という印象だけで、黒くてもじゃもじゃの毛をもった生き物としてこの死体を見ていたが、このクマは、痩大きくないのだ。せいぜい大型犬と同じぐらい。牛や馬のようなサイズではない。体格が小さいうえに痩ので、四足歩行(よんあしほこう)の犬のように四肢四肢が目立って見える。
そんなことを考えていると、エンジン音とタイヤが砂利を踏む音が近づいて来た。やがて、荷台に大型ウィンチを積んだ黒いシボレーのピックアップがあらわれた。プッ、と短いクラクションが鳴る。
「おうマっちゃん、ご苦労さん。新田さんから聞いてすっ飛んできたよ」
小川が仕事用のツナギ姿であらわれた。撃たれたクマよりもよほど体重がありそうな、貫禄ある体を機嫌よさそうに揺らしながら車から降りる。マチは丁寧に頭を下げる。
「お仕事中急にすいません。新田さんも向かってくれているそうです」
「なんも、気にすんでない。せっかくの初クマだもの。これだな?」
小川はマチのジムニー近くで倒れているクマに近づいた。警戒する様子もなく、首回り、肋骨(あばらぼね)、腹、腕などに触れていく。慣れた手つきだ。
「ちっちぇえな。ほれ、毛で分かりづらいけど、触ってみるとよく分かる。やってみれ」
促されて、マチも直にクマの体に触れていく。まだ温かいが、明らかに体温は下がっている。肋骨の凹凸(おうとつ)が手のひらで感じられ、はっとした。
今まで鹿を撃ってきて、雌雄(しゆう)、年齢、体の大小、健康状態は常に確認してきた。なのに、クマはいざ撃った後にそれがどういう個体なのか、確認することがまったく意識にのぼらなかった。
小川の言う通り、触ってみて初めて、こんなに痩せた個体なのだと分かる。
「冬眠前でこんなにガレてるってことは、もともと弱いヤツだったのかもしれない」
小川は、最初に見た時は毛ヅヤが悪く、痩せているため年寄りクマかと思ったそうだ。しかし歯をみるとまだ若い。そこから、一人立ちしてからそう年数の経っていないメスではないか、と見立てた。
骨格(こっかく)が小さいので、母親と共にいた頃から栄養状態が悪い発育不良(はついくふりょう)で、十分な食料を確保できず冬眠に移行しそびれたのではないか、とのことだった。
「生きるのが下手で行き場をなくしたお嬢ちゃん、って感じかね」
小川がニヤニヤ笑ってマチを見た。その視線と、クマを安易に人間に見立てる発言に二重の不快さを感じていたが、マチは無表情を貫いて下を向いた。自分の長靴の爪先に、ちょうどクマの後ろの爪がある。小さいクマとはいっても、充分人を殺せる大きな爪だ。2024-12-27 06:12
食料をうまく得られず、かすかに鹿や食べ物の匂いがするマチの車周辺を彷徨いた(うろついた)のだろうか。
臆測だ。なんの意味もない。でも、たとえば小川のようにクマを見て一目で年齢や栄養状態を推測できていたならば、自分はあの時引き金を引いただろうか。
「一旦(いったん)うちの加工場に持っていくってことでいいんだろ?」
マチが下を向いている間に、小川は手際よくロープを荷台から下ろし、クマの四肢に結び始めていた。慌てて手伝う(てつだう)。
「すいません、よろしくお願いします」
数分後には、クマは小川のピックアップの荷台に横たわっていた。
「じゃ、先行くから後ろついてきて」
「はい」
小川のスムーズな運転の後を、マチはジムニーでついていく。荷台から黒い毛が見えた。ゴトゴトと車が揺れるたびにその体も小さく動いている。
「なんで撃たれちゃったの、お前」
こんなところで。私なんかにあっさり。そうして荷台で頼りなくゆらゆら揺れて。
マチの心に冷えた水のような失望が満ちていた。撃たれたクマに。撃ってしまった自分に。理屈なんて分からないけれど、無性に『こうあるべきじゃなかった』という確信が渦巻いていた。
程なくして、小川の加工場に到着した。加工に従事している老齢の男性が上下白衣(じょうげはくい)で出迎えてくれる。マチの方を向いて、人好き(ひとずき)のする笑顔を見せた。
「クマ撃ったんだね。初めてだって? すごいしょ、おめでとう」
おめでとう?
祝われることなのだろうか。そう戸惑いながらも、マチは一応「ありがとうございます」と頭を下げた。
クマの体は小川と従業員によって下ろされ、専用の入り口からスムーズに施設内に運ばれていく。
「確認だけど、新田さんに頼まれた時はいつもしてるように、一旦ウチで全部もらう。利益分からうちの加工賃抜いて、あとはグループの予備費にプールする形でいいかな。肉は、欲しい部位があればマっちゃんに持ってってもらう。希望ある?」
「ええと……」
マチの手のひらにさっき触れた肋骨(ろっこつ、あばらこつ)周りの感触が蘇る。食べられる肉などほとんどないのではないだろうか。そもそも、それだけ痩せこけたクマの肉は、食べても問題ないのだろうか。
「じゃあ、ちょっと家族で焼いて食べてみるぶんだけ。塊で一、二キロもあれば。部位はおまかせします」
「オッケー」
小川は確認を終えると、すっと顔から笑みを消した。加工場(かこうじょう)の床に置いたクマの体に向かい合い、従業員と共にてきぱきと解体の準備を進めていく。解体用の白衣に着替えてくると、立派な体格もあってすっかり肉屋のおやじさんのように見える。
「マっちゃん、事務所でお茶飲んで待っててもいいよ。それとも見学する?」
「あ、見学させてください。迷惑でなければ」
マチは加工場の隅から見届けさせてもらうことにした。そこで、ふと気がつく。
「作業、スマホで録画させてもらっていいですか」
「いいよー。じゃあ、うっかり下ネタ言わないように気をつけるね」(Well, I'll be careful not to accidentally talk down to you.)
軽い口調とは裏腹に、小川の手つきはいたって的確だった。従業員と二人で、最低限の声掛けのみで息の合った作業が進んでいく。
基本的な手順は鹿の解体と大きく変わるようなところはなかった。クマは鎖を足首にかけて逆さ吊りにされ、後ろ脚から腹、上半身、前脚へと皮を剥がれて(はがれて)いく。うっすらした白い脂肪に包まれた体の形だけは、鹿とかけ離れていた。草食動物よりも太い手足、長い胴体。どちらかというと、人間に近い。
小川が下腹(したはら)から胸にむかってナイフを入れると、重量のある内臓がどっと飛び出てきた。マチはそこも動画で撮影する。続いて胸骨(きょうこつ)が切られると、肺、心臓のほか、塊状(かたまりじょう)になった血がドロドロとこぼれ落ちた。
「あ。……すいません、血、抜くの忘れてました」
「まあ、初めてだし、仕方ないよ」
小川はフォローしてくれたが、マチは自分の失態が情けなかった。死んだのを確認したら、ぐるぐる余計なことを考えずにやるべきことを思い出して速やかに手を動かすべきだった。マチはスマホを逸らさず、塊状の血にもカメラを向けた。
静かに解体が進んでいる中、車のエンジン音が大きくなり、建物の前で停まったようだった。続いて、玄関から「おばんでしたー」と声がする。新田だった。
「おう、入り口の棚にある白長靴に履き替えて入ってー」
小川に指示され、新田が加工場に入ってきた。マチに向けて、やや険しく目を細めている。思わず深く頭を下げ、再び顔を合わせた時は安心したように微笑んでいた。
「なんもなくてよかった」
はい、とマチは頷く。安全を願ってもらえるありがたさに、嬉しさと申し訳なさが拮抗(きっこう)する。
新田はマチの隣で、解体作業を見守った。
「撃てて、嬉しかったか」
ぽつりと、新田の重みのない問いに、マチは言葉が出てこなかった。責められている、とさえ思った。
「嬉しさは、ないです。ああすれば、こうすればって、考えてばかりで」
「そうか」
それ以上問いただそうとしない師匠に、マチも沈黙を返す。
クマがいたから撃った。
マチの行動はそれだけだ。けれど、そこに至るまでの心の動きを、うまく顧みる(かえりみる)ことができない。
クマを撃ちたかったのか。クマが自分のところに向かってくる可能性があったから撃ったのか。やりすごして撃たずに帰ることはできなかったのか。それともハンターとして一度は撃っておきたいと考えたのか。
どれでもあり、どれでもない。
ただ一つ、おめでとうと祝われて嬉しく感じられなかったのは確かだ(たしかだ)。
「マっちゃん」
小川に声をかけられて、マチははっと顔を上げた。解体はおおむね済み、関節で分けられた塊がステンレスのテーブルの上に載っている。
「今回、肉は痩せてっから量は回せないけど、両手足は中国料理の食材で引き合いあるからさ。もらうね」
「はい」
「あと、毛皮とか頭とか、何か記念にいる?」
指された先のコンテナには、毛皮や頭など、普通なら廃棄される予定の部位が入っている。
「ええと……牙って、抜けますか。一本でいいので」
「んー、アタマごと土に埋めといて、骨になってからだと抜きやすいよ。それとも今、欲しいの?」
マチは少し考えた後、頷いた。
「ええ、今。できれば」
「わかった。ちょっと割れるかもしれないけど」
そう言うと、小川は作業箱からペンチを出した。しかし、太い小川の腕をもってしても、新田が代わっても牙は抜けなかった。白っぽくなった歯肉と一体となって、グイグイひねってもびくともしない。
「じゃあいいです、すいません、無理言って」
マチが申し訳なく思って恐縮したのが効いたのか、小川は「いや、もっかい待ってて!」と事務所に走っていった。
帰ってきた小川は、金槌(かなづち)と鉄の楔(くさび)を手にしていた。楔の先を上の牙が埋まっている歯肉にあてがい、「ふんっ」と金づちを振り下ろす。
ガキン。鈍い音がして、作業場の床に牙が転がった。
「ごめん、やっぱ端がちょっと欠けた」
「いえ、充分です。ありがとうございます」
小川に手渡されたそれを、マチは観察する。根元の部分は確かに割れていたが、おおむね牙の形を保って(たもって)いる。マチの小指よりも小さく、半分から根元側は黄色く色がついていた。