夜明けのハントレス 第20回 河﨑 秋子 2025/01/23

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、猟友会会長の新田に教えを乞いながら狩猟免許を取得。就活も終え、ハンター二年目の猟期が始まった。マチは一人で入った山で痩せたクマに遭遇し仕留めるが、肉の質が悪く、そのクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんから、腕のいいハンターだという「アヤばあ」に会うよう勧められる。

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 上がり框(かまち)に、真っ白な髪で、皺だらけの顔をくしゃっとほころばせた女性がいた。いかにも農家(のうか)のお婆ちゃん、という感じだ。

 堀井銃砲店で『御年(ごとし)八十歳ほどの女性ハンター』と聞いていなければ、本当に普通のお婆ちゃんにしか見えない。マチは玄関口(げんかんぐち)で深く頭を下げた。

「こんにちは、お忙しいところ申し訳ありません、岸谷万智(きしだに まち)と申します。こちら、心ばかりですが」

「はいはいどうもね、ありがとね。堀井の婆さんから話は聞いてるよ。佐藤綾子(さとう あやこ)です。堀井の息子や若い鉄砲撃ちはアヤばあって言ってるから、あんたもそう呼ぶといい。ま、入って入って。ささささ」

 挨拶もそこそこに、アヤばあは踵を返して廊下を歩き出した。マチは慌てて「お邪魔します」と靴を脱いだ。短い廊下を歩く間に、背後から女性の体の動きに目をやる。

 ぱっと見、背は低い。背中が少し曲がっているのかとマチは思ったが、姿勢をみるとぴんとしている。すごい、と声に出さず驚いた。ジムでバイトをしていた経験上、八十歳ぐらいの女性でこれだけ腰が曲がらず歩くには、相当な背筋と体幹、足腰の鍛錬が欠かせない。全体的に小さな骨格(こっかく)をしゃきしゃきと動かしている印象だ。

 農家の仕事のせいか、それとも山に猟に入る生活が体を作っているのか。両方かな、と思いながら小さな背中についていった。

 通された茶の間を見て、マチは映画のセットのような印象を受けた。大きな四角い(しかくい)テーブル。ソファに無造作にかけられた古いキルトのカバー。どんと存在感のある薪ストーブ(まきすとーぶ)は外国製鋳物(いもの)のようなものではなく、昔懐かしい楕円形だ。上では茶色く変色したヤカンが湯気(ゆけ)を吹いている。部屋にはうっすらとジャガイモを茹でた匂いが漂っていた。

「寒かったしょ。ストーブの近く座るといいわ。はい座布団(ざぶとん)」

 色の褪せた桃色の座布団を置かれ、マチは礼を言って上着を脱いだ。正直、ストーブはあかあかと焚かれ、部屋の中はどこも十分暖かい。しかし客に一番暖かい場所を勧めるのも、もてなしなのだろう。

 座布団に腰を下ろすと、視界に黒いものが入り、ぎょっとした。茶の間と廊下を隔てるドアの上に、クマの頭の剥製(はくせい)が飾られていたのだ。

「ああ、それかい?」

 マチの戸惑いに気付いたアヤばあが、けらけらと笑う。

「いつだったか私がとったやつ。剥製飾る趣味なかったんだけど、見える場所に置いておくと、押し売りが来た時に勝手にびびってくれるって聞いたもんだから」

 あはは、とマチはアヤばあに合わせて笑った。クマを撃ったことのある自分でも驚いたのだ。押し売りの人にもさぞ効果てきめんだろう、という気がした。そのクマが見える位置に席を設けられたことについて、マチは深く考えないことにした。

 茶の間に続く和室の奥には、大きな仏壇が据えられていた。古い写真立ての中で、細面のお爺さん(おじいさん)が微笑んでいる。こちらも、普通の農家のお爺さんという印象だ。

 まるきり、親戚の老婦人の家に遊びに来たかのようだ。飾られたクマの剥製さえなければ、だが。

 アヤばあは土産として受け取った最中の一部を仏壇に供える(そなえる)と、残りを菓子鉢(かしばち)に盛り、緑茶と共に用意してマチの向かいに座った。

「改めまして、お忙しいところありがとうございます」

「なんもなんも、忙しくないのよ。仕事はもうべっこの畑やってるだけだし、それも冬だらやれることないし。息子や孫やらも盆暮れ正月に顔出しに来るわけでないから、なんの支度もしなくていいしねー」

 気楽、気楽。そう言ってアヤばあは最中の包装紙を開いて一口齧った。「あれ、これおいしい」と目を細める。柔らかい表情と共に動く皺を、マチは好ましく眺めていた。いかにも名ハンターでござい、とばかりに怖さを滲ませる人物よりも、人当たりがよくて常識的な雰囲気の人の方を信用してしまうのは、師匠の新田の影響かもしれない。

「私、新田さんに狩猟教えて頂いてまして。佐藤さ、アヤばあ、さんは、新田さんのお師匠さんと伺いました」

「ああ、新田くんねえ。師匠ってほどちゃんと教えてたわけじゃないけど、三笠(みかさ)の山のクマや鹿の穴場(あなば)、いくらか案内したねえ。あの時も堀井の婆さんから頼まれたんだった、まあ、当時は私も彼女も婆さんじゃなかったし、私だけでなく旦那も一緒だったけど」

「堀井銃砲店のお婆さんとは長いお付合いなんですね」

「そうね。私と旦那が鉄砲持つ時、札幌の店まで相談に行ったのが最初。あの人後継ぎ娘で、あの頃は婿さん貰ったばっかだったね」

 懐かしそうに語るアヤばあに、マチは驚きながら相槌(あいづち)を打った。

「アヤばあさんは、こちらでずっと農家をやってたんですか?」

「いや、親は教師でね、旦那はヤマで長く働いてたの。炭鉱夫(たんこうふ)。住友のね」

 あ、とマチの中で合点がいった。赤平(あかびら)はかつて炭鉱(たんこう)で栄えた場所だ。日本の多くの炭鉱がそうであったように戦後はエネルギー源としての主役を石油に明け渡し、赤平も炭鉱は一つも残っていない。

「まだヤマが動いてた頃、旦那の同僚に鉄砲撃ちが何人かいてね。ヤマの仕事は、今の人らからは想像もつかないぐらい大変だったんだけど、ほら、この辺は山も深いべさ。休みの日は、山歩きや渓流釣り、鉄砲撃ちなんかする人が結構いてね」

 マチはここに来るまでの景色を思い出した。鹿が群れ(むれ)をなす山、その間を流れる川。地面の奥に石炭が眠り、なおかつ自然豊かとなれば、当時の人たちにとってはいい土地だったのだろうな、と自然と想像がつく。

「それで、旦那さんと一緒に鉄砲の免許取ったんですね」

「ああ」

 肯定(こうてい)しながらも、アヤばあはどこか曖昧に頷いて茶を一口飲んだ。

「別にね。私はどっちでも良かったの。でも、うちの旦那も鉄砲撃ちやるっていうから、これは放っといたら危ないなと思ったんで、私も取ることにしたのさ」

 自ら望んだことじゃない。表情でそう示しつつ、アヤばあは仏壇の上の写真を指した。

「死んだ爺さん、若い頃からあぶなっかしい人だったの。炭鉱なくなって、さて子どももまだ育てないばないのにって時に、共同出資して保養センターやらないかって声かけられて本気になったり、借金の保証人(ほしょうにん)になりかけたり。そういう、山師(やまし)に騙されそうになったことなんてしょっちゅう」

 それは大変、とマチは苦笑いをした。結婚して相手に自分の人生の足を引っ張られるなんて、自分なら絶対に耐えられない。

「根本的に人がいいんだろうね。だから元々は、生き物ば殺せる人でなかったのさ。私なんかは田舎の集落の出だから、親が勤め人でも年の瀬になれば庭で飼ってる豚だの鶏だの絞めたもんだけど。あの人だらうちの実家でその手伝いもできない人でさ。そんなだから、私も一緒に猟行ってやらないばないと思ったの」

「優しいんですね」

 浩太と別れてから今まで恋愛に縁はないし、別れたことに未練もないが、ハンターになる可能性を模索した頃、一緒にハンターになる将来をほんの少しだけ夢見たことを思い出した。

 しかし、アヤばあはマチの何気ない言葉に首を横に振る。

「なんも、優しくないのさ。優しいのは旦那のほう。だから山には一人でやれんかったの」

 アヤばあは、細く節が目立つ手を仏壇の方に向け、写真にまっすぐ人差し指を向けた。そして、親指を立てる。「ぱん」と口で発した破裂音が部屋に響いた。

「優しかったら殺されるしょや」

 ヒュッ、とマチは乾いた空気を喉に運びそこなった。空咳が出そうになるのを、茶を口に含んでやり過ごす。

「クマとか、事故とかで亡くなる、ってことですか」

 あくまで確認のためだけにマチは聞いた。しかし、アヤばあは「んー、んん」と肯定とも否定ともとれるように唸る。

「今だら警察やら公安やら厳しいからさ、鉄砲持つ人もちゃんとしてないといけないけど」

 マチに向き直って茶碗を手にしたアヤばあは、少し困ったように眉根(まゆね)を寄せた。

「昔は、事故も色々あったしね」 

 これは多分、詳細を聞かないほうがいい話だ。そう直感した。銃砲や狩猟に関する法律が昔と比べて厳しくなっているのには、ちゃんと理由と、もしかしたらきっかけがあったかもしれないからだ。

「ヤマが閉山(へいざん)してね、新しい就職先もちゃんと斡旋(あっせん)されてたんだけど、やっぱり東京やら札幌行ったら、今まで鉄砲撃ってたみたいな暮らしはできなくなるっしょ? 旦那も私も、なんかもったいないねって。だからここ、農家の跡地(あとち)買って、ここで暮らすことにしたのさ」

 興が乗ってきたのか、アヤばあの口はよどみなく語り続けた。時系列が前後したり、主語が抜けて誰がどうしたのかわかり辛くなることもあったが、マチは余計な質問は挟まずに聞き役に回った。

 実際、女性のハンターは今でも少ないうえ、この年代の大先輩の話を聞くのは初めてで、興味深かった。今とは違う古い銃、山火事の話、本州からのハンターと山中で出くわした話、全てが面白い。

 アヤばあが、ふう、と話の合間に茶を飲んだ時、マチは控えめに質問を決行した。

「あの。女性が鉄砲の免許取って山に入るにあたって、何か、女性だからこそ大変だったことってありますか」

 さりげなく尋ねたつもりが、アヤばあは茶碗を置くと、顎に手をやって真剣に考え始めた。失礼なことを聞いてしまっただろうか、そうマチが心配になるほどの沈黙の後、ようやく口を開く。

「お便所(おべんじょ)かな」

 アヤばあの声は真面目だった。自分の一言で記憶の蓋が開いたのか、そこからは堰を切ったように話し始める。

「男の人だら、小さい方はシャッと出してシャッとしまって、で済むっしょ。でも女はさすがにそういう訳にいかないし、わざわざ便所紙持っていくこともできないから、途中でよさそうなフキの葉をとって、こう折り畳んで、ポケットに入れてたねえ」

 はあ、ええ。マチは真面目に耳を傾けつつ、こっそり拍子抜けしていた。アヤばあの言う通り、猟でもトレイルランでも女性が山に入れば便所の問題は必ず発生する。マチもトイレットペーパーを潰してザックに入れ、使用後は専用の袋に入れて持ち帰ることを手間だとは思っている。

「特に、生理の時は大変でねえ。今みたいに便利な生理用品なんてないから」

「えっ、どうしてたんですか」

「体怠いし処理は大変だし、なにより旦那が嫌がったからね。血の臭いさすな、って。なるべく猟には出ないようにしてたさ」

「血の臭い……」

 言われてみれば。神社やマタギの規律などでは女性の経血(けいけつ)を血の穢れ(けがれ)、と忌み嫌うと聞く。ハンターになる前のマチは、そんなのは迷信、と思っていた。しかし今は、もし生理中に山で餓えたクマに嗅ぎつけられたら、と思うと、無意識に身が竦む。

「まあ、体調悪いのと処理が面倒だから出なかっただけで、旦那の言うこと信じちゃいなかったけど」

 あっけらかんと言うアヤばあの言葉に、マチは「え」と思わず気が抜けた。

「血の臭いったって、男の人らだって山で適当に歩いて手でも怪我してりゃおんなじよ。それでなくても、男だって女だって体臭あるんだし。気にし始めたらキリないって」

「そ、そうですよね」

「体力にしてもね。私だって特別頑丈ってわけじゃなかったけど、山の中歩くのに女だからって男に遅れる、ってこともないしね。あんただってそうだべさ? 細っこいけど、マラソンの人みたいな体してるもね」

 アヤばあは遠慮なく手を伸ばし、マチの二の腕をシャツの上から揉み始めた。「あらー、いい筋肉」などと感心している。

「ええ、私も新田さんたちに猟に連れて行ってもらって、色々未熟なのは思い知らされても、体力とか力が特別どうこうとは感じないです」2025-01-24 05:34

「でしょ。まあ、私が免許取った頃は、旦那の同僚やら奥さんや、あと子どもの友達から、鉄砲撃ちになるなんておっかねえオバちゃんだ、なんてさんざっぱら言われたもんだけどねえ」

 そう言ってアヤばあはさも楽しそうに笑った。なんのことはない、という態度ではあるが、たぶん言うほど簡単なことではなかったのだろう、とマチは察した。思わず「そういえば」と明るい声を出して話題を変える。

「あそこのクマは、赤平で撃ったんですか」

「うんそう。私ら夫婦は自分から進んでクマ撃ちはしなかったけど、集落で馬の尻齧られたとか、とうきび畑荒らされたとかいったら、頼まれて撃ってねえ。昔は皮だの胆だの、高く売れたからよかったけど、あんまり売れなくなったしょ。撃たれなかったら人からはヘタクソ扱いされるし、撃ったら撃ったでクマ殺しの母ちゃんだの裏で言われてさ。ほんと、甲斐がないことだったわ」

 アヤばあはまたからからと笑った。たぶん、本人にとって本当に大変だったことをこそ一番なんでもないように笑うのが、癖なんだろう。皺の奥に隠れた小さな目から、マチはゆるやかに視線を外した。その瞬間、アヤばあは「そうだ」と高い声を上げた。

「裏の山にクマの寝てるとこあるから今からちょっと教えてあげるわ。天気も崩れないみたいだし」

 言うやいなや、アヤばあは茶を飲み干して腰を上げた。やはり、八十歳ぐらいとはとても思えない力強い立ち上がり方だった。

(つづく)