第21回 河﨑 秋子 2025/01/30

夜明けのハントレス

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟免許を取得。就活も終え、ハンター二年目の猟期が始まった。マチは一人で入った山で痩せたクマに遭遇し仕留めるが、そのクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんから勧められ、腕のいいハンターだという「アヤばあ」を訪ねたマチ。彼女の話を聞いたあと、二人は近くの山へ入ることに。

 雪が積もった山に入るにあたり、ベテランハンターと呼ばれるアヤばあこと佐藤綾子は、客用のかんじきをマチに貸してくれた。マチも実は自分の最新式スノーシューをジムニーに積んでいるのだが、素直に厚意に甘えることにした。

 マチは念のため上着に加えてネックウォーマー、グローブ、耳当てつきの帽子を重ねた。対して、アヤばあは工事現場の人がよく着ているような紺色の上着を重ねただけだ。襟に茶色のモコモコがついてはいるが、防寒としてはやや心許なく見える。

「したら行こうか。太陽さん沈むまでには戻ってくるようにしよう」

 その声を合図に出発した。家の裏手にまわり、ゆるやかな斜面を登っていく。アヤばあが先頭、マチはすぐ後ろだ。

 ザッ、ザッ、と二人分のかんじきが雪の上を歩く音が響く。山は混合林(こんごうりん)なのか、濃緑(のうりょく)の葉を残したエゾマツがそこかしこに生えていて、葉で足音がかすかに反響した。

 マチは前を行くアヤばあの音に無意識に合わせようとして、そのテンポに驚いた。

 さすがに八十歳ぐらい、しかも百五十センチそこそこの身長とあって歩く速度はマチよりは遅い。むしろ、山登りのように意識的にペースを落として歩いているようにも見える。

 それよりも注目すべきは、歩調の乱れがないことだ。雪の積もった斜面であっても、森の木が途切れて日光が当たったジャリジャリの雪面(ゆきめん)でも、一定の歩幅と速さを保ち続け、上体も崩れない。

 山に入って五分ほどしたところで、アヤばあが足を止めた。両耳の後ろに手をやり、ぐるぐると体の向きを変える。マチも倣って(ならって)みると、かすかにカンカン、と木を打つような音が聞こえた。

「あそこ」

 アヤばあが近くにある木の樹上(じゅじょう)近くを指した。目を凝らすと、黒っぽい小鳥が枝に張り付き(はりつき)、動いている。

「音が小さいからアカゲラじゃないと思ったのさ。やっぱりコゲラだった」

「コゲラ」

 へえ、とマチは再び木を見る。コゲラという名前も、キツツキの一種であることもなんとなく知識としては持っていたが、アカゲラより小さいこと、スズメとそう変わらない大きさであることまでは実際に目にするまで知らなかった。

「鳥は好き?」

 ふいに聞かれて、マチははい、と答えそうになった。

「好きですが、普通、に近い程度の好きです」

 慎重に言葉を選んで伝えた(つたえた)。多少手間がかかっても、この人の前では自分を偽らず(いつわらず) 、そのままを見せなくては信用されない。そんな気がした。

「じゃあ、特別に好きでなくても、覚えとくといい。出発した時、家のナナカマドのとこで二羽そろってこっち見てたのはヒヨドリ。さっき、ヒョッ、ヒョッて鳴いて私らの横をすり抜けてった鳥は覚えてる? あれはアカゲラ。オスかメスかは頭の色見なきゃわかんないけど」

「全然、気づいてませんでした」

 マチは記憶を手繰って(てあやつって)、「鳥がいた」ことぐらいしか覚えていないことに気付いた。これまで山に入っていた時も、ヒヨドリぐらいには気づいていたが、他の種類や動き、ましてや性別になんて関心を持っていなかった。

「何見てたんだろ、私。今まで山に入って、気をつけていたはずなのに」

 思わず頭を抱えそうになっているマチを、アヤばあはハハハと笑い飛ばした。

「まあ、私は鳥好きだから覚えてるってのもある。死んだ旦那なんかは、炭焼き(すみやき)小屋で働いてたことあるから、鳥より木の方が詳しかったけど」

 アヤばあはそう言うと、周囲の木を指してあれはミズナラ、カシワ、ダケカンバ、カツラ、あの小さい実がついてるのはマユミ、と一つ一つ名を挙げた。

「すごい」

「別にすごかないさ。好きだったり、仕事に必要だったら自然と覚えることだ。でも、直接鹿やクマ撃つのに関係なくても、便利なもんだよ」

 カラスとか、とアヤばあは付け足した。

「私は時々、カラスに呼ばれることあるの。呼ばれて歩いてったら、鹿がいたりね」

 すごい、とマチは感嘆する。先輩ハンターから、そういう事例がある、と聞いたことがある。しかしあくまで伝聞(でんぶん)にすぎず、実際にカラスに獲物を見つけてもらったという人に会ったのは初めてだった。

「本当に、あるんですね。場所はここですか」

「ああ。でも、この山のカラスだからかは分かんないけどね」

 アヤばあはそう言うが、この山だからこそかな、とマチは思う。別にここのカラスが特別という意味ではなく、常に同じ山に入り続け、普段からカラスを見て、カラスもアヤばあを認知しているからこそ、獲物のいるところに案内したし、それに気づけた、ということになるのだろう。

 いいな、と素直(すなお)に羨ましかった。自分は都会育ちで、行きやすいポイントは複数あるが、アヤばあのように生活している拠点近くの、ホームともいえる狩場(かりば)はない。カラスに案内してもらえる自信がない。

「羨ましいし、すごいです」

「そんなこたない。新田くんや堀井の婆さんがどう言ってたのかは知らないけど、私だって山のこと、動物のこと、全部何もかも知ってるってわけでないよ」

 手近にあった木の幹に触れて、アヤばあは言った。

「これはイタヤカエデ。山にはよく生えてるけど、旦那から教えてもらうまで知らなかった木だ。でも、この木の折れた枝から染み出た樹液(じゅえき)に鳥が群がる(むらがる)ことには、私が気づいた」

 とん、と指先で示された幹(みき)の一部分からは、濃い茶色の樹液が染み出た跡があった。そっか、とマチは納得する。樹液がメープルシロップの原料になる木だ。

「経験だけでも、知識だけでもだめだ。どっちかに頼り切ったら、すぐこけてしまうっしょ」

「そうですね、確かに、その通りです」

 マチの肩をぽんと叩いて、またアヤばあは歩き出した。変わらないテンポをマチは再び追う。

 経験だけでも、知識だけでもだめ。アヤばあは今は一人だが、旦那さんの知識があったからこそ、今、新田らに尊敬されるほどのハンターとなったのだ。

 自分はどんなハンターになりたいのだろう。なれるのだろう。

 マチの視線は自分の足元へと落ちていた。アヤばあから借りたかんじきは、雪の柔らかいところも凍ったところもしっかり捉えて歩行を支えてくれていた。

「猟は好きかい?」

 ふいに、アヤばあは歩みを止めないままマチに聞いた。

「はい」

 小さな背中に即答する。問いを投げかけてくれたことに甘えて、質問を返した。

「アヤばあさんは、猟の、どんなところが好きですか」

「探して鹿見つけたら嬉しいし、弾当たったら(だんあたったら)嬉しいし、肉配って喜んでもらえたら嬉しい。だから鹿見つかんなかったり、弾外したり、腹撃っちゃって肉食われたもんでなかったりすると、腹立つさ」

 顔だけ軽く後ろに向けて、アヤばあは笑った。単純で、それでいい。素朴な笑みが説得力を増していた。

「よその奥さんらと話してるより、山で鹿やらクマやら探してる時の方が、なんぼか楽しいわ。こんなこと、猟師でない人の前では言えないけどね」

 わかります、とマチは返した。女性であること、寡婦(かふ)であること、鉄砲撃ちであること。いまは飄々とし達観して見える一方で、きっと色々なことを考えてきたのだろう。

「旦那さんが元気だった頃に一緒に行っていた猟と、一人で行く猟とでは、どっちが楽しいですか」

「一人だね」

 アヤばあは間を置かずに答え、「そりゃ、一人より二人の方が安全だけど」と付け加えた。

「気楽よ。一人の方が。相手と守り合わんくてもいいし」

 周囲はちょうど登り斜面になっていた。急流となっている細い沢を左手に見ながら、アヤばあは太腿を上げて難なく傾斜を登っていく。マチは自分の心拍数が上がっているのを自覚しながら、アヤばあの言葉を聞き逃すまいと集中した。

「でもねえ。さすがに旦那が病気で死んで、看病やら入院やらと一周忌が過ぎるまで山に入れなかった後、一人で猟に出た時はおっかなかったわ」

「おっかなかった」(形]怖い。恐ろしい)

 意外だ、というのは失礼だろうか。でも、どうせ失礼なら、他に聞きたいことがある。

「あの。旦那さんが亡くなった時に、猟をやめることは考えなかったんですか」

「それは考えたさ。でも、やっぱり人間っておっかねえって鹿に思わせないば、すぐ仲間連れて来るし。鹿肉楽しみにしてる知り合いもいるべしね」

 意外と現実的な答えに、少し拍子抜けする。アヤばあは「そうねえ……」と呟いた後、少し沈黙した。

「色々言う人は、いたね。私もあの頃は若かったべし、ちょっとは考えた。でも、一人で山に入った時、おっかなかったけど、これはこれでいいかな、と思ったもんだから」

「これはこれでいい」

 うんそう、とアヤばあは言うと、斜めに生えたナラに手をかけ、斜面を登り切った。マチも同じように、木を引き寄せるようにしてアヤばあの隣に立つ。

 小山の稜線に立つかたちで、二人は眼下を見下ろした。葉を落とした木々の向こうに、アヤばあの家と畑が広がっている。マチの黄色いジムニーも見えた。

「人からは色々言われることあるけど、猟って正解がないっしょ。どうやれば鹿いっぱい獲れるか、みたいなのはあるけど、人様に迷惑かけないのだら、好きにやればいい。そう思ったら、一人でこの山入るの、おっかなくなくなった。楽しくなった」

 少し傾き、橙色(とう‐しょく)がかった日差しを受けて、アヤばあは笑った。

「クマも、ですか?」

「うん。一人でクマ獲る(くまえる)の大変だけど、撃てたら、腹にしっくりくる」

「しっくりくる……」

 理屈ではないのかもしれない。余計な重りも虚飾もそぎ落としたようなアヤばあの笑顔に、マチはどこか納得していた。

 アヤばあも、新田も、質問をすれば答えてくれる。望ましい方法論も教えてくれる。でも結局、自分で経験して、学んで、そうしてハンターとして見つける境地は「これ」というものではなくて、「なんとなくしっくりくる」かどうか、なのかもしれない。自分の「しっくり」像は、まだ分からないが。

 アヤばあは上着の胸ポケットをまさぐると、飴玉(あめだま)なを五粒ほど取り出した。昔からある、黒い包装紙の黒糖飴(こくとうあめ)だ。

「疲れたっしょ。食べな」

「ありがとうございます」

 実はマチも万が一の時のためにエネルギーバーを数本ポケットに忍ばせているのだが、今はありがたく頂く。懐かしい黒砂糖の甘みが口の中に広がって、たっぷり唾液(だえき)が出た。

「慣れない山だら、疲れるっしょ」

「はい。それに、銃がないと、それはそれで緊張しますしね」

 大臀筋(だいでん‐きん)をトントン叩きながらマチは答えた。

「クマの寝てるとこまで、山のてっぺん越えてもうちょっとだから。こういうとこで寝てるって知ってるだけで、まあ面白いもんだよ」

「はい」

 短い休憩を終え、再び歩き出す。小山の頂上部分を越えて、北向きの斜面を下る格好になる。山に遮られて日光が途絶え、急に気温が下がった気がした。

「この山は、他のハンターさんもよく来るんですか?」

「うん、新田くんの知り合いの知り合いとかが、鹿撃ちにね。最近は前より若い人が増えて、クマ探しに来る人もいるけどねえ」

 アヤばあの声には、少し呆れたような気配があった。マチもそう広くハンターたちの事情を見聞きしている訳ではないが、アヤばあのように地域に根差している人ほど、クマを撃ちたいと逸る(はやる)ハンターに複雑な思いを抱いているような気がする。

「今年の秋口(あきぐち)も、若い男の子が一人で、クマのいる場所教えてくれっつって来たわねえ。クマ撃つなら単独でやりたいんだって。知らない人だし、普通だら教えないんだけど、新田くんの知り合いって言うから、今日みたいに山ぐるっと案内したかな」

「新田さんの知り合い、ですか」

 誰だろう。新田のグループは鹿撃ちがメインで、クマは自治体に依頼されて撃つか、農家に頼まれて数人で計画的に狙うことが多い。マチの記憶の中にいるハンターたちを思い出しても、一人でアヤばあに場所を聞きにくるような若い人は心当たりがない。

「若い子。っても、あんたから見たらおじさんかもねえ」

 ハッハッハ、と笑うアヤばあの声が、途中で止まった。

「どうしたんですか?」

 マチには答えず、アヤばあはその場で立ったり座ったりして、前方の一点を見ている。

 まさか、冬眠していないクマが。マチの全身の毛(ぜんしんのけ)が一瞬逆立った(さかだった)が、視界のどこにも動物らしき影はない。アヤばあは無言のまま、慎重に前に進んだ。

「誰か来てる」

 アヤばあの指す先、積もった雪の表面に、明らかに動物のものではない足跡(あしあと)があった。風で薄れた様子もない、まだ新しいであろうスノーシューの足跡は、マチたちと違う方向から来て、アヤばあが目指している山の奥へと続いていた。