夜明けのハントレス 第23回 河﨑 秋子 2025/02/13

すじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟免許を取得。就活も終え、二年目の猟期が始まった。マチは、山で遭遇(そうぐ)した痩せたクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんの勧めでアヤばあを訪ね、二人で近くの山へ入ると、そこには三石勇吾(みついし ゆうご)が倒れていた。アヤばあの家へ連れて戻ると、勇吾はマチに侮辱的な言葉を掛け、険悪(けんお)な雰囲気に。

 アヤばあが山の中で倒れていた三石勇吾を車が止めてある場所まで送っていったため、マチは留守番を任される形になった。

 他人の家に一人残されるのは、どこか尻が据わらない(すわらない)。マチは幾度も座布団の上で姿勢を変えた。

 静かだった。ストーブの上にあるヤカンからしゅうしゅう控えめに湯気(ゆげ)が出ているほかは、何も音がしない。家族の気配や車の音が常にある自宅とは大違いだった。ここなら山の中で鳴く鹿や狐(キツネ)の声でさえ聞こえてくるのかもしれない。少し、羨ましかった。

 静かさに意識を集中していないと、先ほど勇吾から言われた言葉が脳裏に蘇ってしまう。

『コブ』

 そうだ。まだハンターとして未熟なのは自分が一番よく分かっている。熟練者(じゅくれんしゃ)に従って経験を積んで(ツンデ)、そのなにが悪いというのか。

『若いお嬢ちゃんがちょっと狩猟をつまみ食いして、俺らの世界にぶら下がってみたいんだよな』

 ちがう。きっかけは好奇心だけれど、別につまみ食いと思ってこの世界に飛び込んだんじゃない。

 ついあの男の暴言を思い出してしまって、マチはその場に立ち上がった。両手(りょうて)を上げて猫のように全身を伸ばし、それから上体を左右に振って脇腹(わきばら)を伸ばす。人の家の留守を預かっている身で体操をするのは妙な気分だが、今は無性に体を動かしたい。できることならアップダウンのあるランニングコースを全力の八割で走りに行きたいし、銃を持って鹿を追いたい。それが叶わないから、今は全身を動かして血流(けつりゅう)の活性を促した。淀んでいた思考が流されていく様子をイメージして、全身を解して(ほぐして)いく。

「いまに、みてろ」

 両腕を後ろに伸ばして肩甲骨(肩こうこつ)まわりの筋肉を縮めながら、呻きに紛れてマチは吐き出した。苛立ちは晴れて、前向きな闘争心だけが残った。

 あんな、単独猟でハンガーノック(hunger knock)に陥るような人に、笑われないようなハンターになる。なってみせる。自分の単純な負けず嫌いな心は、時に一番のコーチになる。競技時代に培った(つちかった)、精神の一番大事な土台だ。

「みてろ」

 腰に両手を当て、マチはふーっと息を吐いた。顔を上げると、アヤばあが撃ったクマの顔がこちらを向いている。

 いずれ、自分も満足いく形でこんなクマが撃てるように。

 そんなことを考えてクマの剥製(はくせい)とにらめっこしていると、軽トラックの音が近づいてきた。

「ただいまー。悪かったね、留守番させちゃって」

 玄関に姿を見せたアヤばあの顔に、怒りの名残(なごり)はなかった。それが妙にほっとする。

「おかえりなさい。さっきの人、大丈夫でした?」

「ああ、ああ。車の中で説教したらなんかブンむくれてたけど、最後には頭下げて帰ってったよ」

「そうですか」

 あの、体が大きくて曲者(くせもの)の勇吾が軽トラックの小さな助手席で体を縮め、アヤばあから説教を食らっていた。想像をして、マチは思わず笑いそうになった。

「あんたは、大丈夫かい」

「はい。驚きましたけど、助けられてよかったと思ってますし」

「そうかい」

 アヤばあが廊下を進んでいったので、マチは慌てて頭を下げた。

「あの、もう夕方(ゆうがた)なので、私そろそろ帰りますね」

「え、帰っちゃう? なんかバタバタしちゃったし、お茶一杯飲んでいかない?」

 そう言われると、断って帰る訳にもいかない。マチは「はい、ありがとうございます」と茶の間に引き返した。

 改めて茶を淹れ、向かい合ったアヤばあは、少し疲れているように見えた。山を歩いている時は元気そうに見えたが、やはり冬山歩き(冬やまあるき)とその後の人命救助で疲労が出てきたのだろうか。最中を一口齧(ひとくちかじり)、ふう、と小さく息を吐いた。

「悪かったね、さっきは」

「いえ」

「なんか、このまま一人でいると、色々思い出して腹塩梅(はらあんばい)悪くなりそうだったからさ」

 ははは、と乾いた笑いにつられる。色々思い出す。自分が、なのか、マチが、なのか。両方だろうな、とマチは推測した。せっかく助けた人間に嫌なことを言われて、何事もなく受け流せる者はなかなかいない。アヤばあも思うところがあったのかな、と思うと少し心の距離が縮んだように感じた。

「なんか、懐かしくなっちゃったよ」

「何がですか?」

「昔はそれこそ、もっと酷いこと言う奴がいたからさ。女が俺らの山入るな、とか、子どもが何か怪我すりゃ母ちゃんが鉄砲撃ちなんかするからだ、とか。もう支離滅裂(しりめつれつ)なこと」

「ひどい」

 思い出して、くっくっと喉の奥で笑うアヤばあは、体は小さいが揺るがない重い石のように思えた。見当違いの言葉を投げつけられ続け、それでも今なお鉄砲を手放していない人なのだ。

「結局さ。あたしのことを間違ってるって言って正義面してるってよりも、何がしかの理由つけて人にいちゃもんつけたいだけなのさ、ああいう連中は。だから、問題抱えてんのは口汚ねえこと言う本人自身」

「本人自身(ほんにんじしん)」

 アヤばあの言葉をなぞりながら、マチの脳裏に浮かんだのは二人の面影だった。一人は恋人だった浩太。もう一人は親友だったえみり。いずれも、マチがハンターとなることを受け入れられずに離れていった。

 きっとマチも悪かった。もう少し、ちゃんと言葉を尽くせば分かり合えたのかもしれなかった。でも、それぞれにマチから見えない問題があったのだとしたら、結局どうしようもなかったのだ。

「あの三石ってのもね」

 アヤばあの言葉で、マチはいつのまにか自分の膝のあたりに向けていた視線をはっと上げた。

「新田くんとも色々あったらしい、とは聞いてるけど、難しい子だよ」

 言葉を選んでいるかのように、アヤばあはゆっくりと茶を口に含んだ(ふくんだ)。

「車の中で説教して、ぽつぽつと反論してきたことをまとめると、考えなしで一人山の中に入った訳じゃなさそうだった」

「え」

 通い慣れた山でもないのに、冬に単独猟をして、しかもハンガーノックで倒れるなんて。客観的にみれば短慮の極みでしかない。マチの当惑を見通したように、アヤばあは苦笑い(にがわらい)をした。

「勤め先ね、動物園だって」

「動物園?」

 唐突な単語が出てきて、思わず鸚鵡返し(おうむがえし)になる。

「札幌の、街はずれにあるっしょ、大きいの」

「ええ、はい」

 マチは驚いた。昔からある札幌市営の動物園だ。子どもの頃から幾度も行ったことがある。

「ずっと飼育員やってて、何か思うところがあるとかなんとか、よく分からないこと言ってた」

「飼育員……」

 マチの記憶にある飼育員の姿は、遠足や社会科見学で子どもたちに笑顔で接し、動物を大事に扱っている職員さんのイメージだ。さっきの、唐突に突っかかって(突っかかって)きた男とは程遠い。

「まあ、あの態度も性格も、本人にとっては理由があってのことなんだろうけど」

 アヤばあは呆れたように続きの間を見た。

「言葉や考えを練り上げたからっていい鉄砲撃ちになれるとは限らないのにね」

 そうですね、とも、そうなんですか、とも相槌を打てずに、マチはアヤばあの視線が向けられた先を追った。和室の奥、仏壇では亡くなった旦那さんの遺影が笑っている。

「いい鉄砲撃ちって、どんな人のことなんでしょう」

 マチはぽろりと素直すぎる疑問を零してからはっとした。アヤばあは気分を害したふうもなく、ははっと欠けた前歯(まえば)を見せて笑った。

「人によっては色々だけど、山入ったらちゃんと元気で帰ってこられる奴かね。あたしにとっては」

 今日出会ってから、一番の笑顔だった。

 マチがアヤばあの家を出たのは、もう日が沈んだ後だった。お陰で眩しい夕日(ゆうひ)に悩まされることはないが、幹線道路に出るまでの間に鹿が何頭も道路に飛び出してきて閉口した。ここの鹿に限らず、ハンターは日没後から日の出前までは発砲できないと知っているように振舞う動物は多い。夜はハンターの時間ではないと、経験から学んでいるのだ。

 こんな山の中で一人で暮らし、高齢であっても元気に山に入るアヤばあのあり方は、マチには刺激的だった。

 半径一キロ以内に自分しかいないような場所で日々を暮らし、鉄砲を担いで歩いて山に入り、たまに客人(きゃくじん)と甘いものを食べる。

 そんなシンプルな暮らし方が、ひどく魅力的に思えた。ハンターとして、いや、生き物として、本来のあり方というのはあのような生活なのではないかと思う。惹かれる。

 その一方で、勇吾に投げかけられた声が耳の奥で蘇る。

『俺らの世界にぶら下がってみたいんだよな』

 その言葉が、今度は変な角度から身に冷水を浴びせてくるのだ。

 確かに、アヤばあのような狩猟生活は魅力的ではある。けれど、それはあくまで憧れだ。いいな、と思っている時点で、アヤばあの人生が作り上げた生活にぶら下がっているだけだ。

「なにさ、もう」

 認めよう。業腹(ごうはら)だが。マチは車内に一人なのをいいことに、唇を尖らせたままで札幌への帰り道をひた走った。

 三日後。マチは午後の講義がない日を選んで、動物園に来た。確か高校生の時に友人数名と、妙にテンション(tension)が上がって訪れて以来だ。

 冬、しかも平日とあって空いているだろうという考えは、すぐに訂正せざるを得なかった。確かに週末や夏休み時期と比べるとスカスカだが、それでも家族連れ、外国人観光客、はたまたマチのように一人で歩いている人など、それなりに入園者がいる。

 入園料を支払い、ゲートを潜ると、鼻先をくすぐる動物のにおいに懐かしいな、と感じる。小学校の遠足で来た時には、確か男子児童がふざけて鼻をつまみ、先生に怒られていたっけ。

 マチもそこまではしなくとも、『臭い』と感じていた。しかしハンターになった今は、動物の体臭や排泄物の臭いは大事な情報だ。むしろ積極的に嗅いで(かいで)覚えておきたい、とさえ思う。

 今回、数年ぶりに訪れたことに明確な理由があるわけではない。ただ、三石勇吾(みついし ゆうご)がここの職員なら、日々動物園で大事に飼育されている動物に接しながら、野生動物を狩るハンターでもある、ということであり、その立場がまるきり想像できなかったのだ。

 あとは、マチとて腹立ち(はらだち)がまだ収まりきっていないというのもある。積極的に会う訳ではないが、もし本人がいたら距離をあけて存在を確認し、なんだ普通に働いてる普通の人じゃないか、と安心したい気持ちがあった。異変を感じて逃げた鹿が、無事を確認しにわざわざ危険な場所まで戻ってくるようなものだ。

 冬季とあって、色々なにおいが混ざった風は冷たく園内に吹き付けている。マチは、三笠(みかさ)のアヤばあを訪ねた時と同じジャケットを着用していた。お陰で寒くはない。もし勇吾が園内の目につく場所にいたとしても、こそこそ隠れていたくはない、と思っての装いだった。

 自分の存在がばれたところで、どうってことはない。私は公共施設を普通に利用している、善良な一市民だ。そう開き直ると、マチの足取りは軽くなった。

 正門から入り、一番近い猛禽舎(もうきんしゃ)、子ども動物園と回っていく。ふれあいコーナーらしき場所では、幼稚園児ぐらいの男の子がお母さんと一緒にふわふわのウサギと戯れて(たわむれて)いた。

「ママー、うささん、ふわふわ」

「うん。でもうささん、爪あるからね。蹴られないように、そーっと触ろうね」

 微笑ましい(ほほえましい)親子の会話が聞こえてくる。マチは、いいお母さんだな、と感心した。ウサギは後ろ足の爪がけっこう鋭いのだ。野生のノウサギは力強い足と爪で天敵のキツネを追い払いさえする。そういえば、新田さんの知り合いで、ノウサギの肉が好きって人がいたな。モモ肉にボリュームがあるって。

 ふいに思い出してしまい、いやいや、と慌てて記憶に蓋をする。ハンターとなってから訪れる動物園では、つい狩猟対象となる動物は今までと違う見方をしてしまう。

 続いて、サル山やゾウがいるエリア、キリンやライオンがいるアフリカゾーンへと入っていく。

 ここはさすがに、どんな動物も日本の法の下では狩猟の対象ではない。アフリカでは欧米の富裕層(ふゆうそう)を対象にこれらの野生動物をゲームハンティングの対象として撃たせるらしい。

 日本人でも機会があればやってみたい、という人がいるかもしれないが、マチとしては興味はそそられない。勧められても多分拒否する。

 ただ、それはそうした狩猟のあり方を否定するものではない。ゲームハンティングの高額な料金が自然保護の財源に回されるケースもあると聞いた。人が野生動物を殺す。どうすれば正しくて、何をすると間違いなのだろう。

 出口のない思考に疲れて、マチはキリンの柵にもたれかかった。園内は広く、意外と歩いた。呑気にこちらを見下ろしているキリンの向こうで、従業員用らしき扉が開いた。

(つづく)

イラストレーション 西川真以子